連続小説『フィーリング ヴォイス』


 決して嫌いではない。むしろ、とても興味はあるし、どちらかと言うと好きな世界。そんな複雑な気持ちになる世界が誰にでもあるかはわからないが、俺にとって今向かっている場所は正に、そんな場所だった。

「おい、圭介。せっかくだから楽しめって」

 隣に座る正志が、スマホを片手に俺に話しかけてくる。

「勿論、来たんだし、楽しもうと思ってるよ」

 俺は正志の言葉に答えるが、明らかに生返事なのはバレバレだろう。

「お前、予想しねーの?」

「予想?」

 正志は、そう言いながら俺に自分のスマホの画面を見せてくる。

 正志のスマホの画面には、“東京 1R”の文字と共に、カタカナの名前が並んでいる。

「もう予想? 着く前から早くね?」

 俺のその答えを聞いて、正志は鼻で笑う。

「馬鹿。俺なんて昨日のうちに今日のレースはざっと全部見てるよ。着いたらやるのなんて最終確認だけだって」

 正志の顔は笑っているが、目はあまり直視したくないほどに真剣である。

「そういうもん?」

 俺は正志の真剣な目を受け流しながら答えて、座席の背もたれによっかかりながら目をつぶる。

 そもそも朝が早すぎる。

 大学生が遊びの約束をするなら、時間は早くて午前11時が相場だろう。11時に集合、今日何するとか話しながら歩いて、適当な店に入ってランチ。そこからカラオケか、買い物目的で街をぶらつくか、それだけだって十分濃すぎるほど1日を楽しめる。

 だが今日の正志との約束は、新宿駅7時集合。7時と17時を間違えてるんじゃないかと、二回聞き直した。

「馬鹿。7時でも遅いくらいだって。本当は俺一人だったら新宿は6時半に通過してるな」

 正志は常識を語るような口調で答える。

 その世界の常識は知らないが、早いものは早い。どうせ電車に乗ってる時間もまだ20分はある。寝られるだけ寝ておきたいと思って、それ以上は多くを口にしないで俺は目をつぶった。正志は恐らく、横でまたスマホに目を落としているだろう。

「圭介、馬好きだろう」

 幼い頃の記憶が蘇る。

 だがこれは、今向かう場所に対してトラウマ的に夢を見たのではなく、思い出そうとして思い出している記憶だ。

 俺の父は、競馬が趣味だった。

 平日は働き、土日になると競馬に熱中する。そんな生活を一年中送っているから、母はすっかり呆れ果てており、

「せっかく圭介も休みなんだから、どこかに出かけようとか思わないの?」

 という言葉は、週末になると必ず聞く我が家の名物のようなものだった。

 父は母の小言を聞きたくないのもあり、電車で行ける範囲で競馬が開催されている期間だと、俺を競馬場へ連れて行くようになり、俺もきっと、あの場の雰囲気が好きだったんだろう。馬が走るのを、興奮して見ていた記憶がある。

 だがある日母は、俺と父の競馬場通いにまで制限をかけた。

 理由は、

・1 俺の教育に悪い事

・2 自分は一緒に行けず家で留守番な事

・3 せっかく毎日働いているお金が、土日で無くなっている事実

 の三つだった。

 1に関しては、俺はよくわからなかった。未成年は馬券を購入してはいけない事、というのは競馬場で徹底されていたし、俺だって貴重な自分の小遣いをそんなところにつぎ込むなんて御免だったから、どれが勝ちそうって何となく予想して応援するぐらいだった。

「競馬場って、ほら、おじさんもいっぱいでしょう? あんまり綺麗じゃないだろうし」

 母親は漠然としたイメージで言ったのだろうが、その通りの部分もあれば、綺麗な公園のような場所やレストラン、子供達の遊び場まであり、おじさん専用の施設というわけではなかった。

 だが、1の理由はきっと体裁で、実質2と3が問題だったんだろう。事実母親はせっかくの父と俺の休日に家で毎週お留守番だったわけだし、その上父が家族の貴重な生活費を土日で浪費しているのは事実だっただろうから、母親にとっては許し難い遊びだったに違いない。

「圭介、馬好きだろう」

 父の雄作が俺にそう話しかけてきたのは、競馬場へ遊びに行くのに制限がかかってからすぐのことだった。

「でも、競馬場はダメなんでしょ?」

 俺がそう答えると、

「今日は純粋に馬と遊びに行くんだよ」

 そう答える父の向こうに、珍しく一緒に出かける準備をしている、機嫌良さそうな母の姿があった。

 車に2時間ほど乗って着いたのは、確か栃木県だったような気がする。

 都内から出ることも珍しい我が家にとって、埼玉県をまたいで更に違う県へ突入するということは、母親だけでなく俺も久しぶりで、とてもワクワクすることだったので覚えている。父には申し訳ないが、競馬場へ向かうよりも嬉しいことだった。

 着いたのは、名前はさっぱり覚えていない、とある乗馬施設だった。

 馬舎が幾つもあり、その一つ一つにちゃんと馬が一頭割当たられている。

 いつも父と行っていた競馬場は、どちらかと言うとコンクリート造りのイメージで、街から離れた気は全くしていなかったが、今日のここは、木で出来ている馬舎に、土と藁のような枯れ草の山。馬やそれ以外の匂いもダイレクトに伝わってきて、競馬場の何倍も、馬の近くに来たことを実感する場所だった。

「たまには、こういう日曜日も有りだな」

 父は、本心かはわからないがそう言って日常から離れたその場を見渡す。

 馬舎から少し離れた場所には、競馬場のコースとはちょっと違う、乗馬用の広くとられたスペースがある。

「雄作、本当にそう思ってる? さっきラジオ気にしてなかった?」

 母親は、父が本心は今日も開催されている競馬に心が持って行かれてるのではないかと探りを入れる。

「今日は本当に大丈夫だって。今日は重要なレースもやってないし」

 父の答えは決して競馬をすっかり忘れ去った者の言葉とは思えないが、母も久しぶりに出かけられて気分がいいのか、それ以上ツッコミを入れることはない。

「坊主、馬が好きなのか?」

 その乗馬施設でいかにも長年働いていそうなおじさんが俺に話しかけてきた。

 第一声で人のことを「坊主」と呼ぶ辺り、自分のキャラクターをものにしすぎている感じがする。

「馬を見ると興奮するんですよ」

 何故か俺の代わりに父が答えた。

 俺の本心を言えば、父に付き合わされて行っていた競馬場で、父の興奮に付き合わなければ何となく申し訳ない気持ちで盛り上がっていたのだが、その経緯を説明しないまま“馬を見ると興奮する少年”というキャラクターに位置付けられるのは少々不満がある。

 ただ、不満の一方で、そのおじさんが連れてきていた一頭の馬に目を奪われた。

「こいつ、坊主のことを気に入ったみたいだな。坊主もこいつのことが気に入ったんじゃねえか?」

 さすが長年やっているだけあるのか、その叔父さんは常人にはないシックスセンスのようなもので、俺とその馬の間に流れた空気感を察知してきた。

「坊主はこいつに乗ってみな。坊主の背丈的にはポニーが良いが、でもサラブレットに興味があるんだろ?」

 初対面の人間に対して、“免許皆伝”を言い渡す仙人のような言い方をしてくる辺り、この仕事が長いことを物語るおじさんに言われるがまま、俺はその馬にまたがった。

 いつもの目線よりも遥か高くに上がった感覚。馬の上というのは、こんなに高い場所だったのか。

「いいぞ、こいつもすっかり坊主に気持ちを預けてる。動物と仲良くなるのがうめーな、坊主」

 おじさんはそう言ってまた仙人の立場から褒めてくれるが、悪い気はしない。

 最初はおじさんが、俺の乗る馬の引き手を持って連れ回してくれる。

 そして、少し歩いたのちに、手綱の操作と発進の方法を教えてくれた。

 おじさんに教えられた通り、馬にまたがった両足で馬のお腹を内側に軽く蹴る。馬がゆっくりと歩き出す。

 思っていたよりも上下に揺れる幅がずっと大きくて、大きな動物に乗っているんだということを実感する。

 周りを見ると、母も他の馬に乗り楽しんでおり、父は下から俺のことを見守りながら携帯電話のカメラで俺と母を交互に追いかけている。

 何回か練習したのちに、通常の歩き方である“並み足”から、速歩、駈歩(かけあし)と、走る馬の上に乗ることを教えてもらった。

 特に“駈歩”に関しては、時代劇などで優雅に乗っている姿を傍目から見ていた時とは大違いで、こんなにも揺れるものだったのかと思い知る。

 だが、駈歩から手綱を引いて馬を操り、並み足に戻して元の場所に戻った俺を例のおじさんが感嘆の声で迎え入れた。

「坊主、天才かもしれねえぞ。馬と一体化してる感じだ」

 訪問販売のように、気を良くさせて乗馬コースに通わせる商法なのかと思うほどの褒め具合に、俺は一瞬怪訝な気持ちになった。

 が、実際に母の方は引き手を外れての駈歩は許されず、今日はゆっくり乗って終わりましょうと言われて終わったようだった。

「馬の気持ちが分かるみたいに乗ってるよ」

 おじさんは興奮気味に語っている。

 長年この仕事をしている仙人のようなこのおじさんがそこまで興奮するということは、本当なのかもしれない。

 俺が乗っていた馬も、未だ俺に視線を向けているような気がする。そう思ってくると、馬のなんてことない鼻息も、まるで“もうちょっと一緒に走ろう”と言っているかのように聞こえてくる。

「こいつ、まだ少し走りてえみたいだが、坊主行けるか」

 おじさんがまた興奮気味に俺に声をかけてくる。

「それって、料金は変わらないっすか?」

 父はすっかりお金の方の心配をしているが、

「追加料金なんかとらねえよ。アグリが坊主と走りてえって言ってんだ」

 おじさんのその言葉で、俺がずっと乗っていた馬の名前が“アグリ”ということを知った。

 あまりちゃんとは聞いていなかったが、乗馬施設の馬には種類があって、ポニーのような小型の馬と、時代劇の撮影などにも出演する乗馬用の馬、そして、元は競馬に出る競走馬として生まれてきたサラブレットの血を引く馬とがいるらしい。

 アグリも元は競走馬として生産された馬で、いずれは大きなレースに出ることを目指して育成されていたが、その途中で何かの諸々があり、この乗馬施設にくる流れになったんだそうだ。

「仲間たちは競走馬として早くから走る訓練をさせられる。それを傍目から見てた憧れかわからんが、アグリは走るのが好きなんだ」

 そう言って、仙人のようなおじさんは俺にもう一度アグリに乗ることを勧めてきた。

 俺もおじさんの褒め言葉に上機嫌になっていたから二つ返事でOKして、再度アグリにまたがった。

 今一度両足でアグリのお腹を軽く叩き、並み足で歩き出す。そこから、合図を出して今度は一気に駈歩へと段階を上げる。またもロデオをイメージするほどの揺れ幅。乗馬は体力がいるとおじさんが説明していたが、その通りだ。

 だが、俺が見事にアグリを乗りこなす様を、両親が口を開いて見ている。俺の腕前はまさに天才を感じさせる相当なものなのだろう。

 だが、次の瞬間、アグリが走るのをピタッと止めた。大きな揺れ幅で上下していた俺の視界は、途端に動きを止めて、俺は再び視線を定めさせるのに時間がかかったくらいだった。

 突然静止したアグリを見て驚いたおじさんが、驚いた顔で駆け寄ってくる。

 それくらい、今の今まで駈歩で走っていた馬がピタッと止まるのは異常な出来事なんだそうだ。おじさんは到着すると俺をアグリから降ろして、心配そうにアグリの様子を見る。

 俺も、アグリに何かあったかとアグリの目をじっと見る。

「まだ眠いのかよ。いよいよ始まるんだから集中しねーと、財布の中身持ってかれるぞ」

 正志が、ぼうっとパドックで馬を眺めている俺に忠告をする。

 競馬場に着いたのは8時前だった。父・雄作と昔何度も来た競馬場。父とはいつも車で来ていたので、電車で来たのは今日が初めてでその新鮮さはあったが、十分に懐かしさを感じる場所だった。

 朝早いのに想像を超えるほどの人がいて、正志はやっぱりちょっと遅かったと不機嫌になっていた。なんでも今日は大きなレースがあるとのことで、開門がいつもより早いらしい。

 競馬場で良い席を取るために朝から並ぶ人がいることは、父親と来ている時には知らない事実だった。

「そんなに人気あんだな」

 とぼけたように感想を言う俺に腹が立ったのか、

「ぼうっとしてねえで席探さねえと、全部取られちまうぞ」

 と、不機嫌に正志は俺に注意して、止まる暇なく二人分の空席を探す旅へと出発する。

 端の方の席になってしまったが、なんとか席を確保することが出来、やっと落ち着くことが出来たのが1時間半ほど前。なんと一つ目のレースが始まるまで約2時間、そこから何もない時間を過ごすという。

「席取れないんだから仕方ないんだよ。みんな朝飯食ったり、席で寝るとかして時間過ごすの」

 正志の言う通り、もう少し寝させてもらうことにした。

 そして眠い目をこすりながら見ることになったパドックで、一頭の馬が立ち止まった瞬間に、目が覚める。幼い頃の、アグリが立ち止まった瞬間とリンクしてしまったのだ。

「ああいう馬は大体駄目だ」

 丁度同じ馬を見ていたらしい正志が声をあげる。

「駄目って……、あの止まっちゃった馬?」

「そ。レースってのは馬にとっちゃ極限までの力を出し切って全速力で走る物凄いツラいイベントなわけ。で、過去にその思い出がある馬は、「またあんな思いしたくない」って、このパドックで止まっちゃったりすんの。つまりは、この後のレースでいい走りしない可能性が高い馬」

 正志が丁寧にそう説明してくれたが、俺の中ではアグリとのあの思い出がどうしても浮かんでしまって、あまりそちらに脳を傾けることが出来なかった。

 パドックというのは、レース前の馬が、引き手に引かれて競馬場よりも小さな周回を何周もする。馬券を買う者はそこで馬の調子を見極め、この後自分の運命を賭ける馬を見定めるのだ。

 テレビなどでも放映されるし、実際に競馬場に行くと、高いところから見下ろすことも出来れば、一番近くまで近寄って、馬の匂いまで感じられるところで見ることも出来る。

 だが、その日は大きなレースがあるという日。正志曰く、人出はいつもの何倍もで、パドックも近い良い場所は確保されてしまっているらしい。

「まだ第1レースだから良いけど、メインの時は1こ前のレース見るの諦めて場所取らないと、下手したら馬の耳すら見えないほど人の壁だから、頭入れとけよ」

 これ以上に人が増えるなんて、競馬というものの人気を舐めてしまっていたのはさておき、俺の目線は先ほど止まってしまった馬のままだった。

「ちょっと、もう少し近くで見たい」

 そう言いながらパドックに近づいていく俺に対して、

「おう、近くで見られるうちにしっかり見学しとけ」

 と、正志は送り出す。

 正志と見ていた競馬場のスタンド部分から階段を下って、パドックのある1階部分へと降り立ち、人が賑わっているところへ入っていく。

 そこで先ほどの馬は、一度は歩くのを再開したものの、俺が近づいたタイミングでまたしてもピタッと止まった。

 俺はその、止まってしまった馬の目をじっと見る。

『大丈夫だよ。ちゃんと走るから』

 俺の頭の中で声が響いた。

 俺は、まるでその馬の声が聞こえたように頭の中に響いた瞬間、目を見開いて、その後他の馬と少し見比べたのち、正志の元までダッシュで帰る。

「正志、あの馬だ。俺、あの馬に賭けてみたい」

「おい、圭介。俺の話聞いてたか? パドックで止まっちゃう馬は要注意だぞ。大体人気も全然ねーし」

「わかった。でも試しに」

「まあ、お前の金だから別に良いけど……」

 突然謎のテンションで買う馬券を決めた俺を怪訝そうに見ていた正志の顔が、驚愕の表情になったのはその第1レースのゴールの瞬間だった。

 俺が決めたあの馬。あいつが、他の馬を大差で引き離して1着でゴールしたのだ。2位の馬に、5頭分くらいの差をつけての勝利。これを競馬用語では“5馬身差”というらしい。

「おい圭介、何でだ。何でお前あの馬が来るって思った?」

 小さい頃のあの乗馬施設での記憶。駈歩で走っていたアグリが、ピタッと止まってしまったあの時、俺はアグリの体に何か起きたのか心配で心配で、アグリの目をじっと見つめた。その瞬間、頭の中で声が響いた。

『ありがとう。最後に走れたこと、嬉しかったよ』

 まるでアグリの声のように聞こえたその声に、当時の俺は心臓が止まるほど驚いて、駆け寄ってきたままアグリの体を心配してみているあのおじさんには自分に起こったことを何も話さなかった。

 だが、その後両親がおじさんにお礼を言って、その日の乗馬料金の支払いを終えても、アグリの様子が気になって、中々車に乗る気になれなかった。

 アグリの体に病気が見つかって、みるみるうちに悪くなり死んでしまった。そう聞いたのは、乗馬施設から帰ってきてそれほど経っていない時のことだった。

「圭介が乗った時にはもう病気だったみたいよ。だから、自分のせいとかって気にすることはないからって」

 母親があのおじさんから伝え聞いたことを俺に教えてくれたのは、俺があの時のことを気に病みすぎないようにという気遣いだったのだろうが、俺の中ではむしろ、

「最後に走れたこと、嬉しかったよ」

 というアグリの言葉が今の現実と噛み合ってしまい、ますます“あれはアグリの言葉だったのかもしれない”と思うようになっていた。

「どうしたの? 自分のせいだと思って落ち込んでる?」

 母親は心配してくれたが、馬の声を聞いたかもしれないというのはあまりにおとぎ話じみてるし、信じてくれというほど自分でも確信が持てているわけではない。似た空耳だった可能性がある。

 だが、もしも自分の死期を悟った馬の声を聞いたのだとしたら、今後ずっと、病気に苦しむ犬、車に轢かれて悲痛な声をあげる猫など、世界中様々な動物たちの最期の声を聞いて生きていくのだろうか。そう想像すると、その声を聞いて平然を保って生きていけるかわからない。

 両親から見たら、“乗馬施設から帰ってきて少し様子が変わってしまった子”に見えたのだろう。俺自身が望まなかったので、それ以降はまた乗馬施設に行くこともなく、父親が競馬場に俺を誘うこともなくなり、馬との関わりはない人生になった。

 動物の声も、あれ以来聞くことがなく、やはり気のせいだったのかもしれないと考えるようになっていたが、親と行くわけでもなく、普通に中学・高校と生きていけば競馬場という施設に行く機会があるわけはないので、大学生になり、馬券も買える20歳を超えるこのタイミングまで馬からは離れた生活を送っていた。

「圭介、馬って好き? めっちゃおもしれえよ」

 正志のそんな誘いに乗ったのは、当時の楽しかった思い出もあったし、あれ以来何度も動物の目はじっと見たけど何もなかった。馬と会ってみてもいいだろう、という自分の中の不思議な許諾に従ってのものだった。

 だが、久しぶりに来た競馬場で、あの時のアグリのように急に歩みを止めた馬を見て当時を鮮烈に思い出し、そしてあの時のアグリとは全く逆のポジティブな言葉聞いて、俺は現実に馬券を当ててしまった。

「何でだよ! 教えろ。お前があの馬だって思った理由!」

 正志は問いただしてくるが、その理由をちゃんと説明できるわけもない。

 だが、俺が選んで馬券を買った馬は、14頭中8番人気と、決して人気がある方の馬ではなかった。ちゃんと競馬を研究して予想している者でも当てるのが難しい状況で、見事的中。正志が興奮するのは当たり前だった。

「今はうまく説明できない。もしも、今日また調子良かったら説明するよ」

 そう言って俺はその場をごまかし、その日の残りのレースに臨む。

 そして、その日俺の頭の中で一番大きく響いた声が、その日のメイン。何万人という観客がそのレースを見る為にここにきているという大レースで、中でもここ6戦を無敗で走っているという超注目馬の、

『もう、走りたくない』

 という声だった。

 俺が日本競馬界で、超若手の馬主として注目を浴びるようになる、少し前の出来事である。

(第2話に続く)

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