短編小説『タシカメ』 後編

(前編よりの続き)

 女学生の沈黙は少しの間続き、その次に出てきた言葉はとりとめもない質問で、話題はすっかりすり替わっていた。

 僕も僕で、何か探してるなら見てこようか? と聞くことも出来たが、それはしなかった。

 女学生からの質問は、「何年生?」から始まって、「学校は楽しい?」や、「勉強好き?」など、これがいわゆる世間話というやつかという、まさしくとりとめもない内容だったが、僕は今までそのような質問をされるとしたら親戚の集まりの席で、はるか年上のおじさんおばさん達くらいからしか経験がないので、何故かとても新鮮に感じた。おじさんおばさん達に聞かれるよりも、答えるのが楽しいのは何故だろう、そんな疑問が頭に浮かんだ。

「明日もまたここで会える?」

 女学生から出たその言葉は、僕の胸の中にとても暖かい温度で広がった。

 話すうちにとても楽しく、もっと話したいなと思っていた時の言葉だったからだ。

 だが、

「暗くなってきちゃうね。もう帰らないと」

 という向こうの言葉で解散となって家路について以降、お姉さんは僕なんかと話して楽しかったのだろうかという疑問が胸にじわじわと広がっていった。

 次の日も学校での日常は変わらなかった。

 僕の席は相変わらず海に浮かぶ孤島で、周りのクラスメイトは挨拶はしてくれるけどそれ以上僕と話すことはない。

 僕自身は何も変わってない筈なのに、あのお姉さんはそんな僕と話したいと思ってくれるのは何故だろう。そんなことを考えていたその日の授業も頭に入ってくることはなかった。

 公園で、昨日と同じく僕がついてから暫くたってお姉さんが姿を現した。

 僕のことを見ると、

「や」

 と今までで一番短い挨拶をしてくれて、その後笑顔を浮かべた。

 僕はその笑顔をとても嬉しく思ったが、その笑顔の後に、お姉さんが昨日話題にあがったトンネルの方をチラッと見たのを見逃さなかった。

 やっぱりあのトンネルが気になってるんだ。

「お姉さんは、見たことあるの?」

 お姉さんの短い挨拶から、また数度のとりとめもないやり取りをしたのちに、僕の方から切り出してみた。

「見たことある? 何を?」

「あのトンネルの中」

 トンネル、その言葉を聞いた瞬間、お姉さんの顔が引きつって見えた。

 よほど触れてほしくない話題だったんだろうか。

 せっかく楽しかった話を、僕は途中で壊してしまったんだ。そんなことが頭を巡った。

 僕の言葉のあと、昨日と同じくお姉さんの沈黙が続く。

 僕も、そのあと何を言えばいいかわからず、黙ってしまったお姉さんの横で、ただただ黙ってうつむく。

「見るどころかね、近づく勇気すらないの」

 とても長い静かな時間のあとに、お姉さんの言葉が聞こえてきた。

 その言葉は、昨日のように話題をすり替えたわけでもなく、話したくなかった話題に触れたことへの怒りでもなく、僕の質問に対しての答えだった。

 その言葉の中で、近づくことに対して「勇気」という言葉を使ったのが気になって、今度は僕の方がお姉さんの言葉のあとに沈黙の時間を作ってしまった。

 人があまりいない公園とは言え、立ち入り禁止になっているわけでもない、何の変哲もない公園だ。そこにあるトンネルに対して「勇気」だなんて随分大げさな表現だなと思ったけど、お姉さんの表情を見ると、それを「大げさ」と表現できない気持ちになった。

 僕はお姉さんの言葉の意味を数度頭の中で考えて、またさっきみたいにお姉さんの表情が曇ってしまう言葉を出したくないから、考えに考えたのちに言葉を切り出した。

「明日もまたここで会える?」

 昨日はお姉さんから出してもらった言葉を、暫くの沈黙ののちに今度は僕の方から出してみた。

 お姉さんは、暫く僕が黙ってしまったあとの言葉としてそれが意外だったのか、少し目を大きくしてこちらを見た。

 そして、少しの時間のあとに、

「そうだね、また明日」

 と答えた。

 その答えに僕は何だかとても安心した。

 これが本当の最後で、お姉さんとの“この公園での時間”はもうやってこないんじゃないかと不安になっていたからだ。

 そして、お姉さんの答えを聞いたあと、僕の中で一つの覚悟を決めた。

 家に帰った僕は、防災用の用具が入った棚の中から懐中電灯を探し出した。

 大人というのは本当に子供のやることなすことに敏感で、こちらが何を考えているのかを常に探ろうとしてくる。だから、こちらの目的を悟られないようにするのは大変だ。

 作戦は僕が必ず見るテレビ番組を見ている時から始まって、CMになった時に決行した。平然とトイレに行くようにリビングを出て、防災用の棚に近づいて懐中電灯を手に取り、そのまま自分の部屋まで運ぶ。いつも通りトイレに入ったと思わせるように、トイレのドアを“ガチャン”とわざと音を立てて開け閉めするという高等テクニックも用いた。

 リビングに戻った僕を、両親はいつも通り迎え入れた。もしも防災用用具に近づいた目的を聞かれたら説明が面倒だと思っていたので、ホッとした。

 帰りの会が終わり、いつもの様に颯爽と教室を出た僕は、少し緊張を帯びた足取りであの公園へ向かった。

 公園に着くと、何度も頭の中でシミュレーションしていた通りにランドセルを開けて懐中電灯を取り出し、ランドセルを置こうと決めていた所定の場所に置いてトンネルへと向かう。ここまでは授業中に何度も頭の中で想定した通りだ。

 トンネルに近づくと、前と同じように中を覗き込んでみる。風の流れはない。やはりトンネルの先は行き止まりのようだ。

 意を決して、懐中電灯のスイッチを押してみる。大人はいつも片手の親指でポチッと軽く点けるスイッチだが、妙に重くて両手の親指で力を込めてやっとスイッチが入る。

 煌々とした光が、暗闇の中を照らす。何か物があるならすぐさま光がそれを照らし出す筈と心の準備をしていたが、意外にもトンネルは先が深くて、物はすぐには見当たらない。

 僕は懐中電灯で手前を照らしたまま、先へ進むことにする。

 少し進むと、茶色い塊が見えてきた。コンクリートで作られたトンネルの地面に置かれた茶色い塊。近づくごとに、それが段ボールであることがわかった。

 段ボールの周りには新聞紙や、空き缶なども散らばっている。

 その付近は何だかとても独特な匂いで、ここには長居したくないと思わせる。

 あまりの環境に、お姉さんが「確かめたい」と言っていたその言葉をその瞬間は忘れていて、もうここを出ようと決める。

 その際に、懐中電灯がトンネルの横の壁を照らして、何か紙のような物が一瞬見える。出ようと心に決めてからの行動は早いので体はもう動きかけていたが、少しだけ気になって懐中電灯の光をその一枚の紙に戻す。

 その紙には、絵が描かれていた。人の顔だということはわかるが、あまり上手とは言えないその絵から得られる情報は少ない。何より、不快な臭いが立ち込めたその場所に突如として現れた絵。あまりに不気味に思えて、僕は少し怖くなっていた。

「子供の絵かな……」

 敢えて言葉に出したのは、トンネルの奥で一人きりでいるその状況が日常からかけ離れすぎていて、自分の声を出すことで少しでも冷静になりたかったんだと思う。その独り言が、トンネル特有の反響で小さく響く。

 自分の声の反響にまた“えもいわれぬ”気持ちになった僕は、絵を見つめる暇なく、次の瞬間、体はもうトンネルの出口に向かって動き出していた。暗闇というのは、何かと想像を広げさせる。ちょっとした物音さえも、心を恐怖で支配させるには十分だ。

 トンネルを抜けた時は、半ばダッシュに近かった。

 空は曇っているのに、とても明るく感じる外。視線の先には、トンネルから出てきた僕を、目を大きくして見つけるお姉さんがいた。

 「ランドセルを見つけたの。だから、君がここに来てるんだろうなと思って。でも姿が見えないから、もしかしてトンネルの中にいるのかなって」

 トンネルから出た僕を、お姉さんは以前と同じく遠くで出迎えた。

 僕がトンネルに入っていたと思うわりには、トンネルに近づくことはなく、そして以前と同じく、遠くから手を振るのみだったので、こちらから近づいた。

「お姉さんは、あのトンネルが怖いの?」

 僕はそう切り出してみた。

「うん、怖い。……でもね、真っ暗だから怖いとか、そういうことじゃなくて、もっと別のことが怖いの」

 お姉さんの返答の意味を、僕は全く理解出来なかった。

 だが、僕がお姉さんの言葉の意味を考えるよりも前に、お姉さんは僕に聞いてきた。

「トンネルの中、何があったか見た?」

「見たよ」

「何かあった?」

「うん。でも、段ボールとか……、ゴミみたいな物がいっぱいあった」

 僕の返答に、お姉さんの瞳が少し揺れたのを僕は見逃さなかった。僕にとっては何があったかわからないあの場所だったが、お姉さんにとってはきっと、確かめたい何かだったんだ。

「……やっぱり、いるんだ」

「いる?いるって何が?」

 お姉さんの答えの意味がまた理解出来なかった僕は質問を続ける。

「その段ボールはきっとね、お布団なんだと思う」

「お布団……?」

 布団というのは、夜中に眠る布団のことだろうか。だが僕が考え事をするときに潜り込むあの布団と、トンネルの中で見たものは似つかない。

「あそこで暮らしている人がいるの」

 お姉さんが言葉を続ける。

 暮らしている、ということは、あのトンネルの中は誰かの家だということになる。

 僕は誰かの家を見にトンネルの中に入って、お姉さんはその何かを確かめたかったんだろうか。

「段ボールの他に何かあった……?」

 お姉さんの言葉は心なしか震えているようにも聞こえる。

「空き缶とかのゴミと、あと、壁に絵があったよ」

 僕の言葉に、お姉さんの目がまた大きくなる。

「絵? どんな……どんな、絵だったか見た?」

「うん……、何だか汚い、あまり上手な絵じゃなくて、でも人の絵だった」

 僕が見たままを答えると、お姉さんはその言葉の一言一言をじっくりと聞いているように見える。

「人の絵? ……どんな? どんな、人の絵?」

 お姉さんの質問は更に続く。

 でも、本当のことを言えばあまり細かくは見ていなかった。怖くなって、もうそこを出たいと思っていた時の出来事だ。

 ただ、確かその絵の中で、とても強調されている部分があった。確か……、

「確か……目の近くにホクロがあって、そこの部分が赤い丸で囲まれてた気がする……」

 はっきりした記憶ではないが、逃げるように出ようとするトンネルの中で、確かにそこの部分は見た気がする。

 授業を半分以上聞いていなくても、先生が黒板に書いた赤いアンダーラインはノートに残されているように、僕ら小学生には記憶に残りやすいものだったのかもしれない。

 僕がそんな考えを巡らせた次の瞬間、お姉さんの大きな瞳から涙がこぼれた。

「え……?」

 僕は自分より年上の人の涙を見たことがなくて、それだけでとても動揺した。

「あ、ぼ、……僕、お、お姉さんのこと、かなしく……」

 うまく言葉が続かないが、お姉さんはその言葉を言い終わる前に、涙をいくつもこぼしたまま首を横に振る。

「違うの。ごめんね……? 自分で行く勇気がなくて、怖くて、……君を利用したの。君が見に行ってくれたらいいなって。それで……ごめん」

 お姉さんが何を謝っているのかはわからなかった。

 ただ、お姉さんがあまりに涙を流すから、今まで以上にお姉さんの大きな目を見てしまって、そこで一つ発見をした。

 お姉さんの目の近くには、ホクロが一つあった。

 いつもは暗くなる前に帰ろうとするお姉さんだが、今日に限ってはそれを言い出さなかった。

「君、家に帰らなきゃなら先に帰ってね」

 そう僕には言ってくれたが、その言葉が何故か、本当は帰ってほしくないように感じて、その日はそのままそこにとどまった。

 鍵っ子にとって、親の帰宅に間に合わなければ大変な事態が想定される。だけど、その日はもう少しそこに留まりたい、そう思った。

 日が沈みかけ、公園の街灯が灯った頃に、一人の男の人がそこにやってきた。

 男の人はリヤカーを引いていて、中には大量の空き缶や、雑誌などが見える。

 その男の人がゆっくりとした足取りで公園に姿を見せると、お姉さんはすっと立ち上がって、何故かその男の人から顔を背けた。

 その理由がわからなくて、でも何故か僕も一緒に立ち上がってしまったので様子を見ていると、男の人は目を丸くしてお姉さんに視線を注いだ。

 僕はその時、一つ発見をする。お姉さんのことを目を丸くして見ているその男の人の目の近くに、さっきトンネルの中で見たホクロと同じホクロがあった。

「なあ、……あんた、も、もしかして……」

 男の人が、お姉さんに声をかける。

 お姉さんは、その声を背中で聞きながら、小さく震えているように見える。

「娘がいるんだ。まだ小さい頃に別れたきりで……、別れたって言っても俺が悪いっていうか……、でも、ずっと会いたくて、娘に会ったら忘れねえように、ずっと覚えてようと思ってて……、丁度、あんたくらいの年頃で……」

 男の人は、興奮するように、だが、言葉が途切れないように息をつきながら切れ切れにお姉さんに語りかけた。

「あんた……、顔見せてくんねえか?」

「…………」

 男の人の言葉に、お姉さんは何故か自分の片目を、目の近くのホクロと一緒に隠してから、その男の人に顔を向けた。

 男の人はゆっくりお姉さんを見ると、柔らかい目になって、

「娘が小さい頃、俺のことを描いてくれた絵があってな。俺の、ほら、ここ」

 そう言って男の人は自分の目の近くのホクロを指差す。

「このホクロもしっかりと描かれた、まあよく描けてる絵でよ。……で、娘にはおんなじ辺りにホクロが一つあって、……それさえ覚えときゃ、暫く経ってから会ってもわかるって、忘れねえようにしてたんだけど」

 男の人のその言葉を聞いてもお姉さんは自分の片目を隠したままだった。

 そのお姉さんに男の人は言葉を続ける。

「でも、必要なかったよ。……そんな目印なくても、わかるもんだな。自分の娘は」

 男の人の言葉を聞いたお姉さんは、片目を隠していた手を離して、そこから大粒の涙が溢れた。

 そして次の瞬間、男の人に駆け寄ると、大泣きしたまま男の人に「ごめんね、ごめんね。お母さんが悪かったの」と話した。

 俺の話を聞いていた満井がポカンとした顔を見せる。

「え。……で?」

「それだけだよ。まだ小学生だった俺には、その時の年上の女学生の涙の意味がわからなかったって話」

 俺の返しに、満井は明らかな不満を見せる。

「いや、それで? それからは!? だって初恋なんでしょ? あ、わかった! その時のその女性が今の奥さんとかそういうオチっすか?」

「そんなわけないだろ。子供の時の話だぞ?」

「だって初恋の話だから!」

 満井の興味はそこにあったのだから、当然聞きたかった類の話ではなかったんだろう。

「その女の人とはそれっきりですか? それからも公園で逢瀬を続けたとか」

「逢瀬って言うな。それからその女の人と同じ公園で会ったのは、確か3回か4回かな。あんまり来なくなったんだよ、彼女の方が」

「でも、来たんすね!」

「だけど、さしたる会話はしてない。とにかく、その一回があまりに印象的って話」

 本当の話をすると、それ以来公園にあまり行かなくなったのは俺も同じだった。

 あの公園が怖くなったとか、そういう理由ではなく、お姉さんと話すようになってからは俺を取り巻く環境が少し変わったからだ。

 クラスメイトとも少しずつ話すようになり、中学に入ってからは同じ趣味を持つ友人も増えた。

 小学校の頃の友人からは、自分がクラスメイトから話しかけられないのではなく、何だか話しかけられるのを拒んでるようにも見えたと言われたことがある。そういう壁を、あのお姉さんとの会話が少し壊してくれたんだろうか。

「結局何の話だったんすか。期待持たせて話しといて」

「お前が何でもいいから話してくださいって言ったんだろ? 初恋ばなしってお題で」

「だから俺が聞きたかったのはもっと甘酸っぱい……」

 不満を吐き続ける満井に対して、俺は少しだけ、この話をし始めた心情を吐露する。

「でも、もしかしたら今この歳になって確かめたかったのかもな。親になってから思い返してみたら、あの時わからなかった気持ちが少しはわかるかもって」

「え? ……で、どうだったんですか」

その時、携帯電話が鳴る。電話の相手は妻であることがスマホの画面に出ているが、電話に出てみると声の主は明らかに妻ではなく、声質も自身でわざと変えているのがわかる。

「誰かわかる? ヒント出そうか?」

 笑い混じりに投げかけられるその問いに僕は答える。

「必要ないよ、果歩だろ? 残念、もうお昼休みは終わりなのです」

 僕はそう娘の名を呼んで、仕事に戻る。

(終わり)

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