短編小説『タシカメ』 前編
「でも、必要なかった」
妙に自分の中に残っている言葉というのは、誰にでも一つはあるんじゃないだろうか。私にとっては、“それ”が子供の頃から何かにつけて頭の片隅にある言葉だった。
子供の頃の私は、友達と呼べる存在がいなかった。勿論義務教育である小学校には通っていたし、テレビの特集番組で時々見る、過疎化が進んだ地域の「全校生徒の人数が一桁」というような特殊な環境だったわけでもないから、クラスメイトは沢山いたし、学校に行けば「おはよう」と言葉を交わす相手はいた。
だが、休日になると特に約束をして遊びに出るような相手はいなかったし、授業が終わって帰宅する時に一緒に帰る者もいない。自分でも、休みにやりたいことも、帰り道で考えたいことも沢山あったから必要としていなかった。
ただ、周りのクラスメイト達は、下校時になれば「〇〇君一緒に帰ろう」と誘い合ったり、言葉を交わすこともなく、当たり前の日課として帰宅路に付く者たちが殆どだったし、月曜日には前の日がどれほど楽しかったかを笑顔で話し合う光景があちこちで見られ、「ああ、みんなは学校が休みだった間も一緒に過ごしていたんだなあ」と、クラスメイトたちの笑顔を横目で見ていた。
繰り返すが、自分としては日常に不満はなかった。やりたいことは沢山あるのだ。
日曜日が退屈だと思ったことはない。むしろ授業がない貴重な日。読みたい本、進めたい研究、試したい実験。様々あった。帰り道でわざわざ誰かと一緒に帰るのも御免だった。歩きながらだと、想像が膨らむ。1日の中で、“寝る前の布団”の中の“次”にアイディアが色々飛び出す時間。その貴重な時間を、誰かに話しかけられて邪魔はされたくなかったし、喋りたくもないのに話題を考えるような気遣いなんて絶対にしたくない。だから、自分にとっては都合のいい環境だったのだ。
ただ気になっていたのは、自分は決して「〇〇君一緒に帰ろう」とも、「今度の日曜日〇〇へ行かない?」とも、クラスメイトに誘われることがないことだった。
僕は、友達がいなかった。
帰宅時によく寄る場所があった。
自宅近くの、妙に暗い雰囲気の公園である。
私はいわゆる“鍵っ子”で、両親共働きの上、帰る時間は二人とも夕方の6時を過ぎるので、家に帰っても誰もいない時間が数時間ある。
その時間に帰宅して一人で過ごすのもいいのだが、この時間の家は、何故かその数時間後に来る夜の時間よりも妙に暗く見えて、様々なアイディアを練りたいが調子良く浮かんでこない。寝る前の布団の中の“暗闇”はあれほど様々な発想が浮かんでくるのに、一人きりで過ごすあの“暗がり”は、何とも言えない“虚”の時間が続く。あまり有意義に働かない気がするあの時間が、私はあまり好きじゃなかったから、その自宅の500メートルほど手前にあるあの公園で、ぼうっと時を過ごしていたのだと思う。
「500メートルってあんまり近くなくないっすか?」
暇つぶしで俺の話を聞いていただろう後輩の満井(みつい)が、ツッコミを入れてきた。
「確かに、もっと近い公園はあったんだけどね」
「近い方がよくないっすか? この後どうせ家に帰るんだし」
満井は当然の理論をぶつけてきたが、小学生の頃の心というのは、そう全てが真っ当な理屈で解決されることばかりではない。
満井を見る限り、自分の意見は思った通り明朗に言うし、必ずそこには自信が付加されている。きっと俺とは違って、共に帰宅する仲間、休日を共に過ごす仲間に多く囲まれてきた学生時代だったんだろう。
そんな満井だが、俺にはやたらと懐こく絡んでくる。
勿論職場には他にも人間は沢山いる。仕事中は研究以外の会話は不要だが、休憩中に話す相手は俺を選ばなくても他にいるだろう。だが満井は俺と過ごすことを率先して選び、俺も嫌ではなかったから、昼メシを共に食べるのは日課になっていた。小学校の、あの頃には考えられなかったことだが、もしかしたら自分の中で何か変わるきっかけがあるとしたら、今話しているこのことの影響もあるのだろう。
「何の話でしたっけ? 先輩の初恋の話じゃなかったんすか?」
満井がしびれを切らしたように聞いてくる。
「言ったろ? 初恋かどうかはわからない。ただ、頭の中に妙に残ってる出来事だよ」
「残ってるってことは、好きだったってことです」
満井は自信満々に、笑顔で言い切るが、俺の中で頭に残ってる理由は、相手の女の人の印象が鮮烈だったというだけではない。
「意味わかんないんすけど」
満井は肩をすくめる。
「あの当時には理解出来ないことがあったんだ。でも、それが妙に残ってて……」
俺は、丁寧に説明するように話すが、満井は“初恋ばなし”には不可欠である甘酸っぱい部分が気になって仕方ないようだ。
だが、話し始めた俺の心の中心はそこではなかった。思い出す毎(ごと)に、あの時のあの女の人の涙の理由が、大人になった今の心で知りたくなったからだ。
「先輩はつまり、初恋かどうかはわからない。けど、今話すことであの時のあれが“初恋”だったかを確かめたいってことですかね」
「確かめたい……。確かに、確かめたいという気持ちはあるのかもしれない。……だが、“照れ”とかそういう甘酸っぱい感情ではなく、「初恋ばなし」と言って話し始めたこの話題で俺が確かめたいのは、もっと別のことな気がする」
「なーに照れてんすか。さっさと話さないと、昼休み終わっちゃいますよ。戻ったらまた顕微鏡とにらめっこなんすから」
だから照れではないと言いたいが、満井みたいなタイプの人間には説明しようと思っても返って照れ隠しに捉えられかねない。話を進めた方が良さそうだ。
「君、家近いの?」
初めてその女性が話しかけてきたのは、夏前だったと思う。
ジャンパーのような厚手の上着は要らなくなって、でも雨が続くと半袖では肌寒い、ジメジメとした陽気の頃。いつもどおり薄暗いあの公園で、見たことがなかったタイプの明るい印象の女学生が私に話しかけてきた。
「え?」
最初は、質問に答えられなかったと思う。聞こえなかったわけではない。自分の今までの人生の中で、登場人物になったことのないタイプの人に急に話しかけられた。それも、一人でいる時にだ。
過去に社会科見学で、地域にある歴史博物館に行ったことがあり、班ごとの自由行動になった時に大学生くらいの女性に話しかけられてアタフタしたことがあった。だけど、あの時は他にクラスメイトがいたし、女性の言葉も、私ではなく確実に他の男子児童に向けられたものだった。
大人というのは、クラスで目立つ存在の者が一目でパッと見てわかる機能か何かがついているのだろうか。その時向けられた言葉も、確実にいつも目立つ存在の者に狙いが定められており、私は一言も発しなくてもその場をやり過ごすことが出来た。一方、いつも目立つ存在のその者は、まるでそんな場はいくつもくぐり抜けてきてますと言わんばかりに、平然と女性の言葉に答え、何言か交わした後には女性はそのクラスメイトの言葉に笑ってまでいた。僕には、あの時何故女性が最後に笑ったのかが全くわからなった。大人特有の愛想笑いという感じにも見えなかったし。
ああして大人の女性まで笑顔に出来るところが、いつも目立つあの者が、いつも目立つ所以なのだろうと思いつつ、真似出来る気は全くしなかった。
だけど、今は僕一人で、薄暗い公園で年上の女学生に話しかけられているのだ。当然、僕はクラスメイトのあの者ではないから、うまく受け答えなど出来る筈がない。質問は聞こえていたが、当然最初の答えは「え?」だ。一度落ち着かせなくちゃならない。
「君、いつもここにいるよね」
大変だ。一つ目の質問に答えなかったのに二つ目がやってきた。こうなってくると、どちらの質問に答えるべきかがわからず、もはや黙るしか選択肢はなくなってくる。
「ごめん、ごめん、急に話しかけてびっくりさせちゃったかな」
女学生は、僕に合わせて目線を低くしていたのだが、体を元の態勢に戻して遠くを見た。
興味を無くさせてしまった。反射的にそう思ったが、かといって何か言葉が出るわけでもない。恐らく女学生は、僕では話にならないと思ってこの場を去るだろう。そもそも、この明るい印象の女学生に、この薄暗い公園は似合わない。
「家は、この近く?」
だが、いる理由を無くして帰るかと思われたその女学生は、最初の質問をもう一度繰り返してくれた。
「歩いて、10分くらい……」
僕は絞り出すように声を出した。
「10分? あんまり近くないね。家、どっち?」
「…………」
女学生の更なる質問に、僕は無言で家の方向を指差した。
「あっちなら、他の公園もあるよ?あっちの公園の方が遊具もいっぱいあるし。ここより明るいし」
また、答えるのが難しい質問だ。
この街に他にも公園があるのは知っている。この街は住宅がいっぱいあるし、その分子供もいっぱいいるから、それに合わせて公園も沢山ある。マンションや団地には、敷地内に公園が付いているところもあって、団地に住んでいるクラスメイトたちなんかは、その公園が帰宅後の集合場所になっているのが、教室でよく聞こえてくる。だからこそ、僕みたいな者には好都合だった。
この公園は他の公園と違って坂の上にあるから、「行こう」と思う者しか行かないし、その割に遊具も少ない。更に木や植物が茂っている分太陽の光が当たりづらく、だからいつも薄暗い。
僕は、帰宅途中で考え事を捗らせたくて寄っているこの公園で、同じ学校の児童に会うなんて絶対に避けたいことだったし、同じクラスの者をこの公園に見かけた日にはモーリス・グリーン並みのダッシュで遠ざかるだろう。
この公園は、いつ寄っても僕ひとりきりになれるから好きだった。
「ここがお気に入りの場所なんだね」
まるで僕の心を読むかのように、沈黙を続けた僕に対して、女学生は言葉をかけてきた。聞いてもあまり答えない僕に対して、自己完結とも言える言葉をかけてきた女学生の言葉に、僕は今度は無性に反応したくなって頷いてみせた。
僕が頷くと、女学生は嬉しそうに笑顔を見せた。
「そっか。ここがお気に入りの場所か」
前の歴史博物館で、クラスメイトの受け答えを見守るしか出来なかった僕が、初めて年上の女学生の笑顔を引き出すことが出来た。僕は、未開の地を探検で征服したかのような達成感を覚えた。
「明日もここに来たら会える?」
「え……?」
まただ。女学生の、まさかの問いかけに、思わずまた、答えではなく戸惑いを返してしまった。だが女学生は、
「お姉さんは、明日もここに来ようと思ってて。明日また会ったら、お話ししない?」
そう続けてきた。
僕は、なんと答えればいいのか、そもそも、一人になりたくてやってきている公園に、また来ると宣言する者がいる中、それでも自分はこの公園に来たいのかがわからず少し沈黙したが、数秒後に頷いた。
女学生は僕のその頷きを見るとまた嬉しそうに笑って、
「良かった。じゃ、また明日ね。君も暗くなる前に帰らなきゃね」
そう言い残して去っていった。
女学生の言う通りで、僕は両親が帰宅する前に鍵を開けて自宅に帰宅していなければならない。
そうでなければ、暗くなる時間まで遊び歩いていた子という、小学生としては許されないレッテルが貼られてしまうのだ。
誰もいない暗い家には帰りたくないが、かといって両親が帰宅後の家に帰れば叱られてしまう。この辺りが、鍵っ子の難しいところである。
次の日、学校にいる時間から、ずっと昨日の女学生のことを考えていた。
いや、正確に言えば昨日の帰宅後からずっとである。いつもはお風呂の時間が嫌いで、なるべくならさっさと済ませて部屋で考え事をしたいのだが、昨日はそのお風呂を出た後に、「長湯しないでね」と母親から注意をされた。大人というのは子供の心を常に見透かそうとしているのか、時々そんな風に考える。こちらとしても絶対に全てを明かしたくなどないので、騙し合いをしなければならない。
とにかく、授業も今日の分はあまり覚えていない。ノートをとるのがただの作業になると、後から見返しても何のことかさっぱりだ。先生が赤いチョークでアンダーラインを引いたところを、ただなぞるように書いてあるそれをランドセルに仕舞いながら、今日もあの公園に行こうか、そればかりを考えていた。
学校を出ると足はあの公園に向いていた。
“帰りの会”の後、いつもよりも長く教室にいた今日だが、特別なことは何も起こらなかった。周りはいつも通り「一緒に帰ろう」と誘い合い、もしくは言葉を必要とせず勢いよく教室を出て、中には帰宅後の約束を取りまとめている者たちもいる。その中自分の机だけがまるで海に浮かぶ孤島のように思える感覚。いつもこの感覚を長く味わいたくないから早々に教室を出ていたんだなと改めて思い返した僕は、颯爽と公園に足を向けた。
昨日あの女学生と交わした言葉は少ない。だから勿論、あの女学生は僕のことを全部は知らない。今日また会って、昨日よりも多くを話したら、あの女学生は僕をもっと理解して、クラスメイトたちと同じように僕とは話をしたくないと思うかもしれない。
わざわざそんな思いをするために、一人でいることが気に入って行っていた公園に行くことはない。昨日から頭の中で何度も自問自答したが、それでも足は公園を向いている。いや、つまりは足だけでなく心も公園に向いているのだ。
僕は、初めて自分の受け答えに笑顔を見せてくれたあの女学生が、僕という人間ともう一度会ったらどう思うのか。この世界の誰か一人は、僕なんかと“話したい”と思ってくれるのか、確かめたくなったんじゃないかと思う。
公園に着くと、あの女学生の姿はなかった。
その瞬間、心の中で激しい何かの消失が起こったような感覚。
だけど、その後冷静に思い返す。年上の女学生、つまりは小学生の自分よりも学校が終わるのは遅いはず。昨日も、この公園について暫く考え事をしたのちにあの子は現れた。
「まだ、来ないと決まったわけじゃない」
そう思うと、いつもこの公園でどうやって一人で過ごしていたのかがわからなくなる。何をしてもそわそわする。遊んだこともない遊具に向かって、今までとったことのない行動をしている自分に違和感しかないが、落ち着かないからしょうがないのだ。
その中で、公園の中で一番高度の高い、林の近くのトンネルにも近づく。
街の中でも坂の上に位置するこの公園。その中で一番高度が高い林の近くのトンネル。よくこの公園に来る僕だったが、それでもあのトンネルは不気味で、あまり近づかないようにしていた。
中を覗き込むと、空気の流れがないことがわかる。
もしもこのトンネルがこの先向こう側のどこかへ続いているのなら、風がヒューヒューと抜ける筈である。理科が得意な僕は、そのくらいは当然といった感じで推論を立てる。
つまりはこのトンネルの先は行き止まりで、作られた当初はかくれんぼの隠れ場所なんかの目的で子供の遊び場のつもりだったのかもしれない。今やこの公園で遊ぶ子供自体が殆どいないが……。
トンネルの中から視線を戻して再び外に向けると、今まで薄暗く思えてた公園が妙に明るく見える。それくらい、トンネルの中は漆黒の闇ということだろう。
その明るい先に、あの女学生が見える。
こちらを向いて手を振っている女学生を見た瞬間に、胸の中に熱い何かが戻る感覚。先ほど消え去ったと思われたものが急激に戻って来て、熱さという温度を与えている。
「本当に来た……」
思わず国語の教科書に出てきそうな定型文の言葉を呟いて、少し立ち尽くしたのちに、その女学生に小さく手を振り返してみる。
女学生はその僕の控えめな手の振りに、更に大きく振り返してくる。「おーい」くらい言って来ても良さそうなものだが、女学生はただただ無言でこちらに向かって手を振っているので、仕方なく僕はそちらに向かって走る。
女学生の元まで走り付くと、女学生は挨拶よりも先に、
「あのトンネル、中見たの?」
と聞いてきた。
その質問があまりにも予想外のもので、
「見たけど……暗いだけだったよ」
と、僕はそれだけ答える。だが女学生の食いつきは更に予想を超えるもので、
「暗いだけ?何か物はあったりしなかった?」
と更に問いかけてきた。
そう聞かれても、こちらはただ所在なく、いつもは近づかないトンネルを覗き込んだだけなので、探検の意思はない。
ただ首を振って見せると、女学生は昨日の笑顔とは対照的に、
「そっか……」
と暗い表情になった。
昨日会う約束をして、今日また会ったのだ。本心を言えば、「また会ったね」とか、「来てくれたんだね」とかそういう言葉を期待していた。その中、よく分からない質問と、原因不明のがっかり感を見せられてはたまらない。
だが、何故か口は、
「でもね、暗くて奥は見えなかったから、何かあったのかも……」
と、女学生をがっかりしたままにさせたくない気持ちが妙に働いて、そう言っていた。
何故がっかりさせたままにしたくなかったかは分からない。ただ、昨日の笑顔に対して今日の顔は、言いようのないほどに自分の心が残念な気持ちになるものだったのだ。
「あのトンネルの中にね、あるかもしれない物を確かめたくて……」
女学生は、僕の言葉に希望を持ったのかそう続けた。
ただ、希望を持ったにしては、その表情は明るくなるものではなかったのが引っかかった。
「あるかもしれないもの……? 何かを探してるの?」
僕がそう聞くと、今度は女学生の方が黙ってしまった。
(後編へ続く)
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