NVCと神の物語

「NVC(非暴力コミュニケーション)と聖書が語る『神の物語』とはどう関係しますか?」
 先日、そんな質問をいただきました。神学者でもないわたしがこれに回答するには力不足ではあるのですが、NVCをキリスト教の文脈で味わえるようにしたいわたしとしては、稚拙であれ、何かしら回答する努力は必要だと思い、以下に記します。

 聖書が語る『神の物語』とは何か?

 まず、『神の物語』についてからわたしなりの理解を書きたいと思います。ざっくり言うなら、神が創造したこの世界において、神こそが王とされるはずが、しばしば人類、またイスラエルの民が神を王とせずに歩む。その姿が、いわば、やんちゃな子が親のいうことを聞かないがゆえに火傷をするかのように聖書に描かれています。親である神は、火傷するわが子を見捨てません。預言者を送り、最後には神の独り子イエス・キリストを送って、人類に神の愛を届け、神の愛による統治へと招き続けます。そして神の物語は過去だけの物語でなく、それは現在に続く物語であり、イエス・キリストの十字架と復活によって神の王としての統治はやがて完成し、不正や差別がある世界ではなく、非の打ちどころのない正義と愛の実現する未来がやってくるのです。そうした天地創造の物語から始まり、未来に向かっての神の愛の完成まで…それを『神の物語』として私は理解しています。

ブルッゲマン著『預言者の想像力』を鍵として

 個人的にNVCの発想と近いものを感じている旧約聖書学者にウォルター・ブルッゲマンがいます。その中でも彼の著書『預言者の想像力 現実を突き破る嘆きと希望』(日本基督教団出版局)には重なるものを感じています(もちろん、重ならない部分があることも感じてますが…)。ブルッゲマンは本書において、預言者による批判とパトスに関連して<嘆き>を語り、預言者の力を与えるわざと驚きに関連して<頌栄>を語る。そして無感覚なものとして<王族意識>という言葉を用いています。
 神を王としない<王族意識>の中で生きようとするなら、なるべく感情に振り回されないよう無感覚の中を生きようとします。王族や貴族が優雅な生活ができるのは虐げられた人たちがいるからです。そこに対しては無感覚を生きることになります。彼らにとって、自分が悔い改める必要もない社会システムのほうが助かります。その意味でも無感覚を生きることになるのです。喜びや楽しみはあるでしょうが、感情的にひどく苦しめられることからなるべく回避しようとすることになります。これが<王族意識>です。旧約の預言者たちや主イエスはこうした<王族意識>を批判しました。現代にあてはめるなら、快適な生活を味わいたいし、安くていいものを買おうとします。でも、実は国内なり海外なりで非常に安い賃金体系の中で苦しめられている人がいることに無感覚であったりするのです。自分のライフスタイルが地球環境を悪化させるものであったとしてもそこに無感覚であったりもします。それもある意味の<王族意識>と言えるのではないでしょうか。
 このように弱者が苦しみを強いられている中で、強い者が無感覚なまま安定と楽しみを追求しようとする状況に対し、旧約の預言者たち、並びに主イエスは<嘆き>をもって批判しました。そこにはパトスがありました。まあでも、このパトスという語が厄介だと思っています。なぜ邦訳本でパトスとそのまま音で訳すのでしょうか? 日本語として訳しづらいのもわからなくもありません。ちなみにパトスとはパッションの語源となったギリシア語で感情、感動、情熱などの意味があります。

<嘆き>をもって批判する? 

 ブルッゲマンの書き方なら、旧約の預言者は、そしてまた主イエスは<嘆き>をもって<王族意識>を生きる人たちを批判しました。しかし、実際、現代日本を生きる中で、<嘆き>をもって批判する、というのは極めて難しい、というか、どうすることよって、<嘆き>をもって批判すればいいのか、よくわからない。ということは往々にして起こることではないでしょうか。
 というのも、批判している人に対して「まあ、そんなに感情的にならないで」という現場はそれなりにあります。だからこそ、理路整然と批判する人のほうが好まれるのかもしれません。少なくとも会議の議長が「感情的になって批判してください」と言うことは考えにくいのです。とはいえ、そのように理路制限と批判をしていることで、預言者のように<嘆き>をもって批判している、と言えるのでしょうか? <嘆き>をもって批判する、とは、おそらく旧約の預言者や主イエスの姿からはアーメンと言えても、実生活でどうしていいかはとても困惑している人が多いのではないかと思います。ブルッゲマンの邦訳本で「パトス」としか訳せないほど、日本語における肌感覚でフィットする言葉が見つけられない感覚のようにも思うのです。

NVCで感情と嘆きを表現する1 感情に気づく

 以前ある霊的修練のセミナーで「一日を振り返って、気になることがあったら、そこでどんな感情があったか味わってみましょう」と言われたことがありました。具体例が示されなかったこともあって、わたしは感情って喜怒哀楽の4つ、つまり、喜ぶ、怒る、哀しい、楽しい。この4つのこと?と思って、そこから先に踏み込むことができなかったことがあります。当時のわたしはそれだけ感情のボキャブラリーが乏しかったのです。もちろん、これはわたしの一例であって、他の人はもっと感情の多くの言葉をパッと浮かぶかもしれません。私自身はNVCに出会って、感情(フィーリング)のリストを見ることとなり、感情についてこんなに多くの言葉があるのか!と、とても驚かされました。そして、自分の中に様々な感情が湧き上がってくることに気づくことにつながりました。


NVCで感情と嘆きを表現する2 ニーズ(大切にしたい何か)に気づく

 感情は煙のようなものと言われます。火があるから煙が立ちます。何か大切したい何かがその人にあって、それが満たされたから現れる感情もあれば、それが満たされないから現れる感情もあります。いずれにせよ、感情という煙が起こるのは、そこにその人が大切にしたい何か(つまり、煙に対しての火)があるからです。そしてその人が、自分が大切にしたい何かに気づくと、人は落ち着いてきます。何か感情的にそわそわする、落ち着かない。そういうことが人にはあります。でも、そんな中、自分は本当に大事にしたいことが明確になると解決はしていなくてもある程度、気持ちが落ち着くことがあります。問題は解決されていなくても、向き合う課題が明確になると、それまでのそわそわや落ち着きのなさが解消されている経験はそれぞれにあるのでないでしょうか。NVCの発想としては、ニーズが明確になると、ニーズが満たされていないにもかかわらず、それに近い感覚、安堵、安心感があることになります。

NVCで感情と嘆きを表現する3 嘆く

 A教会でBさんがCさんにいつも多くの奉仕を依頼し、Cさんが困惑するばかりか、Cさんは自身の家庭や仕事にも手が回らず、体調を崩すこともある、ということがあったとします。それを知ったあなたならどうするでしょうか?
 「Bさん、あなたは神のことを思わず、人のことを思ってる!」と主イエスのように糾弾するのも聖書的かもしれません。それができる人はやってみてもいいかもしれません。その結果にわたしは責任をとることはできませんが…。
 聖書の言葉を使うかさておき、感情的に怒りに任せてBさんを批判することもできるかもしれませんが、それもうまくいくとは言い難いかもしれません。
 一例だが、NVC的な表現だとこんな伝え方になります。
 「Bさん。Cさんの奉仕状況、そして健康面でも仕事や家庭の負担を見ても、わたし、すっごく不安で落ち着かないんです。みんなが大切にされる場をわたしは大事にしたいのに、そうでないことがとても悲しいんです。Bさんも奉仕者がいて安心したい気持ちも大事にしたいから、Bさんも安心できて、わたしもみんなが大切にされる場に近づくためにできることをいっしょに探したいんです。」
 このNVC的表現の場合、現状が望ましい状況でない中に向き合い、嘆き、悲しみが表現されています。その意味で<王族意識>とは異なるものです。しかし、それはいわゆる「感情的」と言われるような感情が主導権を握り、感情に振り回される、というものとは違います。なおかつ現状の問題を見過ごすのでなく、変革へと踏み出しています。
 旧約の預言者たちや主イエスがしたように、直接的に批判するのも一つの道だと思いますが、そのまま鵜呑みにして実行できるかは、それぞれの置かれた状況や背景もあると思うのです。NVCが唯一絶対の方法とはわたしは思いません。しかし、現状の課題に向き合いつつ、嘆きを味わい、表明しながら変革に向かおうとする大変有効な一手段ではあると思っています。預言者や主イエスの言い回しとは違うかもしれませんが、嘆きをもって批判する、という彼らにある精神性を現代に実行することに結果としてつながるように思うのです。

裁くのは嘆き切れていない痛みから来る

 NVCのトレーナーであるホルヘ・ルビオが「裁くのは嘆き切れていない痛みから来る」という話をしていました。しっかり嘆けていないから、相手へのトゲトゲしさが抜けないことがあるし、赦すことが困難だったりします。<王族意識>的な社会になると、嘆くことを回避し、無感覚になりやすい。文化としてちゃんと嘆くことが乏しくなります。嘆くよりも、裁くからこそネットで炎上します。ワイドショーで誰かが叩かれます。その姿は預言者や主イエスのように嘆きから批判することとはどこか違っています。NVCを通して、自分の感情に気づき、ニーズ(大切にしたい何か)に気づきます。それが満たされていないことを神の前に嘆く。嘆いて、嘆いて、嘆き続ける中、天の父はわたしのニーズ(必要)を知っておられ、満たしてくださることを理屈を超えて味わうことになります(マタイ福音書6章8、32節)。こうしていく中で、裁くことから自由にされていくのです。嘆くことで、神を王とできていなかった自分へのケアが始まります。少しずつですが、神を信頼し、神を王としていくのです。そうして<わたしの神の物語>が進展していくことになります。

「ありがとう」と「お願い」

 「人は、『ありがとう』と『お願い』しか言っていない」とはNVCを体系づけたマーシャル・ローゼンバーグの言葉です。ニーズ(大切にしたい何か)が満たされたときには「ありがとう」と言い、ニーズが満たされないときには『お願い』ということになります。幼児がまず身に着ける言語は、「ありがとう」と「お願い」にまつわる言葉なのは幼児に接する方たちはおわかりになると思います。また、キリスト者の祈りも「ありがとう」と「お願い」しか言ってないと言われたら、おおよそ納得するのではないでしょうか。
 人の表現は因数分解すれば、『ありがとう』と『お願い』だけになるのに、大人になるにつれて、お願いの表現が素直でないことが増えて、攻撃的だったり、非難だったりに変わってしまい、衝突や紛争に至っているのです。NVCだと、ニーズが満たされないなら、嘆いて、自分にどんなニーズがあるかに気づいて表現することを勧めています。

NVCはお祝いを大切にする

 「お願い」にまつわる<嘆き>を見てきたので、「ありがとう」にもつながる、ブルッゲマンが語った<頌栄>について見ていきます。
 絶望的な状況だからと、神は王ではないとすることもできますが、そんなときでも神は王である、救ってくださる方だと<頌栄>をわたしたちは歌うことができるのがキリスト教信仰と言えます。今、即物的にニーズは満たされなくても、神が共にいて、必要な時に必要なものを満たしてくださる信頼ゆえにニーズが満たされることがあります。ならば、そのことをも心からお祝いしたいのです。「主を喜び祝うことこそ、はあなたたちの力の源である」(ネヘミヤ8章10節)とあるように、喜び祝うことは力になりますし、マーシャルもNVCで「問題解決に向かうエネルギーはお祝いから来る」と語っています。「踊ることができるのに歩いてはいけない」とNVCの本に書かれています。そのくらい祝うことは大切なのです。とはいえ、聖書に喜び祝う様子、パトスは描かれても、現実の日本のキリスト者は踊るほどは喜び祝っていないことが多いかもしれません(だからこそエネルギッシュでない?)。感情に振り回されるわけでもなく、はたまた感情を抑圧するのでもなく、喜び祝うことをわたしたちは改めて取り戻していく必要を感じています。
 NVCでは、今この瞬間に満たされたニーズを大切にし、その満たされたことを祝います。キリスト者であるなら、日々感謝を見出しながら歩むことを意識したいですし、それだけでなく、現状は悲劇的であったとしても、神の物語の進展の中、いかなる状況においても神は王として、今であれ将来であれ必ず勝利へと導かれる。そのことを今信頼できるなら、今ニーズは満たされ、<頌栄>を歌い、より希望にあふれ、より神の力に生きることができます。

<嘆き>から<頌栄>へ

 NVCでは嘆きがお祝いに至ることを語るが、これはNVCだけのことではありません。詩編の中にある嘆きの詩編(詩編のジャンルの中でも一番多い)には嘆きから賛美に至る詩が多数あります。
 われわれが<頌栄>を歌えない、賛美できないときがあるのは、嘆き切れていないからもしれません。そこには自分や他者を裁く思いがあり、赦せないと裁き続けてしまっているのではないでしょうか。何のニーズが満たされていないのかに気づき、そのニーズを満たしてくださる父なる神への全幅の信頼につながるよう、嘆くことにどれだけ徹しているでしょうか。嘆きの詩編の祈りを自分の祈りとして、どれだけ心を注ぎ出しているでしょうか。その積み重ねが、わたしたちを<頌栄>へと向かわせます。神を王として心から賛美する者へとわたしたちは変えられていきます。

 ちなみに、NVCも、聖書にも、嘆きからお祝いに至る、という共通した流れがあるのですが、では全くイコールと言えるかというと、そうではありません。聖書では、NVCのように自分のニーズにつながって嘆くわけではありませんし、NVCのお祝いも、主なる神を賛美する、というわけでもありません。感情を表し、嘆き、お祝いすることは共通でも、違う点があることも事実です。


聖書が語る『神の物語』とNVC

 聖書が語る『神の物語』を生きるのにNVCは必要か?と問われるなら、「みんなに必要かはわからないが、私を含め、ある一定の人たちには有効ではないか」と答えるでしょう。キリスト者全員に絶対的にNVCが必要だとはわたしは言うつもりはありません。しかし、実際に問題にぶつかりながら、非常に感情的になり、感情に振り回されてしまう破壊的なケースも起こりえます。また冷静に理路整然と批判するケースでも場合によっては、根っこには恨みベースでの批判がある、つまり非常に感情に振り回されている衝動・攻撃性を神学でコーティングしているケースもないわけではありません(逆に言えば、復讐心なく理路整然と神学し、批判することもできなくはないわけですが…)。その意味で、NVCでなくても<嘆き>、<頌栄>を歌いながら、現実を突き破るケースは実際存在すると思います。しかし、NVCは、①感情に振り回されないように適切に感情を表すことを援助します。②満たされていないニーズを自覚し、安心しつつも満たされないニーズについて<嘆く>ことを援助します。③預言者や主イエスほど直接的に糾弾しないにしても変革に向けての塩味のある言葉と態度をとることができるよう援助します。④NVCの<嘆き>は他者を裁くことから自由にし、相手を裁き、暴力的に接しようとすることから回避できるよう、わたしたちを援助します。⑤NVCの感情を表しながら感謝を表すことはむしろ、主を喜び祝うことが実践しやすくなるよう、わたしたちを援助します。
 NVCが万人にとって援助になるというつもりはありませんが、ある一定の人にとっては<嘆き>を経て<頌栄>に至るための援助的なツールとなるように思っています。その意味で、ある人たちにとっては、神を王として迎え、神の物語を生きる際の有効な援助にもなるのではないかと考えています。

あとがき

NVC(非暴力コミュニケーション)について書きながらも、和解や平和構築について、この文章では触れませんでした。実は、神の物語と大いに関係する部分と言えます。今回の問いと共に「聖書が語る平和とNVCが伝える平和は違うものではないか?」という問いをいただいていることもあり、今後書く予定のそちらへのレスポンスの中で、和解や平和構築と神の物語について書くことができればと思っています。

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