平和を求めてー非暴力コミュニケーションを学ぶ一人のキリスト者としてー

※この文章は日本ナザレン教団社会委員会 会報 2019年夏号に寄稿したもので、非暴力コミュニケーションをまったく知らないキリスト者向けに書いたものです。各項目のタイトルは本記事note用につけました。

敵イメージの解消を求めて

 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」 (マタイによる福音書 5・44)と主イエスは語りました。とはいえ、実際に敵を愛することは困難です。
 今、わたしが学び続けている非暴力コミュニケーションでは「敵(かたき)イメージの解消」ということを教えます。つまり相手に「敵」というレッテルを貼るのでなく、むしろそのレッテルをはがして一人の人間として見るのです。
 非暴力コミュニケーションを体系づけたマーシャル・B・ローゼンバーグはユダヤ人として、民族差別の激しいアメリカ社会の中で幼少期を過ごしました。実際、 暴動の中、ユダヤ人だからという理由で殺された姿をも目撃しながら育ったのです。そんな中、同胞 600 万人をガス室へ送り殺したヒトラーも含め、いかにして「敵イメージの解消」をすることができるかを求めて、体系づけていきました。

いじめっ子を「敵」と見るか?「人間」として見るか?

 学校でいじめがあった場合、多くの人はいじめっ子を「敵」と見、ワイドショーなどでも、いかに悪い奴か、とあげつらうかもしれません。しかし、そのいじめっ子も親からひどい虐待を受け続け、虐待された怒りを受け止める大人が誰一人いなかった、ということもあります。いじめっ子がいじめたことそのものには共感できませんが、いじめっ子がいじめに至らざるを得なかった経緯に共感できる方はそれなりにいるのではないでしょうか。同じ少年であっても「いじめられっ子をひどく傷つけた悪魔のような奴」と「親から虐待され、彼のSOSを受けとめる大人もいなかった一人の少年」とではずいぶん違うことはおわかりになるでしょう。単純に「敵」と見るか、敵イメージを解消し一人の人間として見るかで大きな違いがあることがおわかりになると思います。

どっちが正しいか でなく 人生をすばらしくする

 非暴力コミュニケーションでは「どっちが正しいか」では戦争や暴力は続かざるを得ないことを教えます。そうではなく「人生をすばらしくする」ことを大切にします。先のいじめっ子の話でいうなら、いじめっ子自身が虐待されている状況からの安全が確保され、受容される場が築かれることを目指します。それと共に、いじめられっ子の尊厳や安全が守られるように努めます。いじめっ子の善悪を問う以前に、彼の安全が確保され、受容される場が必要です。そうやっていじめっ子自身が大切にされる経験の中で、いじめられっ子の尊厳や安全を大切にできる人になるでしょう。「どっちが正しいか」という発想でいじめた側は悪だとレッテルを貼って、叱るだけではいじめという暴力は続く可能性があります。いじめっ子に謝らせることで安易に解決するよりも、いじめられた側が必要とした尊厳や安全をどのように大切にできるか、自分にできる言動はなんなのかを真剣に考え、そのことが実行できているかの経過を見ていくことのほうが大切です。「どっちが正しいか」ではなく、「人生をすばらしくする」思いの中で、いじめっ子を「敵」と見ず、ひとりの人間として必要としていることを大切にし、その人の「人生をすばらしくする」ことで、いじめという暴力が解消されていくことになります。そういうわけで、「どっちが正しいか」のジャッジをするよりも、「人生をすばらしくする」ことのほうが大局的に、暴力や戦争という悪に向き合う姿勢につながると言えるのではないでしょうか。

お互いを大切にし合う関係を求めて

 わたしたちの身近なところ、また世界情勢を見ていく中で、暴力や戦争を引き起こしている人を「敵」と見るよりも、「そうせざるを得ない一人の人間」と見ていければと思うのです。「お前は敵だ!おかしい!変われ!」と言うよりも「そうせざるを得ない中で、あなたが大切にしたいことは何ですか?わたしは安全や平和が大切で、お互いを同じくらい大切にしながら、お互いの人生をすばらしいものにしたいのです」という姿勢で生きる者が敵を愛し、迫害する者のために祈る者ではないかとわたしは思っています。


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