「エチカ」(スピノザ)とは?
拝啓 奥さんへ
「エチカ」(スピノザ)100分de名著(國分功一郎)「自由に生きるとは何か」を読みました。そして、感銘を受けてエチカの原文を毎日4ページずつコツコツと読んでいます。その過程で得た見識をnoteにまとめていきたいと思います。
スピノザは17世紀オランダの哲学者です。1632年、アムステルダムのユダヤ人居住区に生まれた彼は、1677年にハーグでわずか44歳の生涯を終えるまで、生前には二冊の本しか出版していません。「エチカ」を含めた残りの著作は、彼の死後、友人たちのてによって遺稿集として刊行されました。スピノザの思想の核となる部分は、彼が死んでから世に知られるようになったのです。
書名の「エチカ」とは、倫理学という意味です。しばしば読むのがとても難しい本だと言われます。スピノザの書き方や思想のあり方は少し変わっています。この本を読み解くためには、何かしらの手引きが必要かもしれません。スピノザを読むことは、いま私たちが当たり前だと思っている物事や考え方が、決して当たり前ではないこと、別のあり方や考えた方も十分ありうることを知る大きなきっかけとなります。やや象徴的に、スピノザの哲学は「ありえたかもしれない、もうひとつの近代」を示す哲学と言えます。
例えば、人間の「自由」についてのスピノザの考え方は、私たちが囚われている常識を覆すものです。現在では「自由」という言葉は「新自由主義」のような仕方でしか使われなくなってしまいました。過酷な自己責任論が幅を利かせる世の中で生きづらさを感じている人も少なくありません。「自由」の全く新しい概念を教えてくれるスピノザの哲学は、そうした社会を捉えなおすきっかけになります。
たくさんの哲学者がいて、たくさんの哲学があります。それらをそれぞれ、スマホのアプリとして考えることができます。そのアプリを頭の中に入れれば、それが動いていろいろなことを教えてくれる。ところが、スピノザの哲学の場合はうまくそうなりません。なぜかというと、スピノザの場合、OSが違うからです。頭の中でスピノザ哲学を作動させるためには、思考のOS事態を入れ替えなければならない。アプリの違いではなく、OSの違いを変える必要がある。スピノザの理解するには、考えを変えるのではなくて、考え方を変える必要があるのです。
哲学する自由を求めて
哲学者とは、真理を追究しつつも命を奪われてないためにはどうすればよいかと常に警戒を怠らずに思索を続ける人間です。真理は必ずしも社会には受け入れられないし、それどころか権力からは往々にして敵視されるのだということを十分に理解しつつ、その上で学問を続けるのが哲学者なのです。
たとえば、デカルトは、ガリレイが宗教裁判にかけられたことを知り、本の出版をとりやめたことがありました。何と言っても哲学の出発点であるプラトンは、師匠のソクラテスを権力によって処刑されています。プラトンの哲学は、哲学者でありながらも師匠ソクラテスのように殺されないためにはどうしたらいいかという問いと切り離すことはできません。スピノザもまた哲学者として、常にそういう警戒心をもって事に臨んでいたのです。
現在社会では、そこまで権力から暴力を受けることはないと思いますが、社会から批判を受けることは日常茶飯事でしょうし、警戒心を持ちもちながら思索を続けるという姿勢には学ぶことが多いと思いました。楽観的な夫としては、思いついたことをベラベラ口に出してしますので、慎重さが必要だなと反省をしております。
エチカの最後の部分で、スピノザはこんなことを書いています。
「無知者」は外部から何か「働き」を受けるとぞろぞろと動き出すけれども、それがいったん終わればすぐにいなくなります。そのことを指してスピノザは、彼は「存在するのをやめる」と言っているのです。インターネットの炎上のような現象です。三百年以上前のアムステルダムでもスピノザをめぐって同じようなことが行われてしました。人間はそんなことを繰り返しているわけです。
神すなわち自然 ー汎神論
教科書などでは「エチカ」に見られるスピノザの思想は「汎神論」と解説されています。汎神論とは、森羅万象あらゆるものが神であるという考え方です。但し、スピノザの汎神論では神はただ一つです。
スピノザの哲学の出発点にあるのは「神は無限である」という考え方です。無限であるとは限界がないということです。つまり、神には外部がないということになります。神は絶対的な存在であるはずです。そして、すべては神の中にあるということになり、汎神論と呼ばれるスピノザの根本部分にある考え方になります。
すべてが神の中にあり、神がすべてを包み込んでいるとしたら、神はつまり宇宙のような存在だということになるはずです。実際、スピノザは神を自然と同一視しました。これを「神即自然」といいます。神すなわち自然は外部をもたないのだから、他のいかなるものからも影響を受けることがありません。つまり、自分の中の法則だけで動いている。自然の中にある万物は自然の法則に従い、そしてこの自然法則には外部、すなわち例外は存在しません。絶対的な神が存在しても、超自然的な奇跡などは存在しないということです。とても自然科学的な考え方ですね。
「エチカ」とはどんな本か?
「エチカ」とは倫理学という意味であり、倫理学とは、どのように生きるかを考える学問のことです。エチカの語源はギリシア語の「エートス ethos」ですが、エートスは慣れ親しんだ場所とか、動物の巣や住処を意味します。そこから転じて、人間が住む場所の習俗や習慣を表すようになり、さらにその場所に住むにあたってルールとすべき価値の基準を意味するようになりました。
「エチカ」のサブタイトルは「幾何学的秩序によって論証された」とあり、まるで数学の本のように、最初に用語の定義が示され、次に論述のルールを定める公理が来て、それからいくつもの定理とその証明がひたすら続き、そこに備考という補足説明がついて、という形式が繰り返されるのです。ちょっと変わった書籍ですね。
「エチカ」は全体が五部で構成されています。以下が各部のタイトルです。
神について
精神の本性および起源について
感情の起源および本性について
人間の隷属あるいは感情の力について
知性の能力あるいは人間の自由について
「エチカ」を手にした人は、おそらくこの本を冒頭から読もうとすると思うのですが、第一部「神について」を見てみると序文もなく、いきなり定義から始まるのです。一つ目の定義の次のようなものです。
最初からこのようなことを言われても、少し困ってしまいます。これは、神が自己原因であることを説明するために、あらかじめ自己原因という言葉を定義している箇所なのですが、出だしから躓いてしまう人も少なくないと思います。
國分功一郎さんによると、エチカは別に冒頭から読み始めなくてもいいということです。ぱらぱらと本をめくったり、巻末の索引を見たりしながら、気になる定理から読んでみればいいのです。岩波文庫版だと上下巻で、下巻は第四部から始まっています。おすすめは下巻から読むことで、第四部の序文が、ちょうどエチカの全体の序文として読むこともできる内容になっているからです。ここを出発点にすると読みやすいと思います。
さて、本文に入る前に時間が来てしまいました。エチカは読み応えのある本なので、何回かに分けてご紹介していきたいと思います。多謝。
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