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76本のトロンボーン

私には師匠がいる。音楽をしていたときの師匠だ。
かっこいいでしょ、師匠がいるって。

師匠には、トロンボーンで高校受験をしようと決めた中学3年の春からずっと、恩返しできないくらいお世話になり続けている。高校も大学も卒業したあとも連絡をくださるし、「一緒に吹かない?」と誘ってくださる。

師匠は、否、先生は愛情の権化みたいな人だ。指導にも人との関わり方にも、不器用ながら愛がある。自分が演奏で苦しんできたから、苦しんでる人をほっとけない。暗闇の中でもがく人がいたら、どんなに嫌な奴でも変な奴でも必ず手を差し伸べるし、光が見えるまで、アプローチを変えながら寄り添って、急かさずにじっと待ってくれる。
自分の弟子を傷つける人がいたら、問答無用で叱り、私達を守ってくれる。

かっこいいでしょ、うちの師匠って。

そんな先生が還暦を迎え、演奏会を開くことになったと連絡がきた。
「久々に一緒に吹きませんか?」と締められたそのメッセージには、やっぱり不器用な愛が詰まっていて、なぜか私には、なかなか返信ができなかった。

「ご連絡ありがとうございます。嬉しいお誘いなのですが…」
と、やっとの思いで返信ができたのは数日後のことだった。
私は、もうしばらく楽器を吹いていないこと、どうしても本番までに練習の時間がとれそうにないこと、先生の演奏を聴きたいから、演奏会には是非伺いたいことを伝えた。先生は「ありがとう」と返信をくれた。
嘘はついてないのに、なぜか、なんだか後ろめたかった。

その後しばらくして、演奏会の数週間前、先生から「受付をしてくれないか」と連絡がきた。
自分で言うのもなんだが、私は『演奏会の裏方マスター』である。大学時代は呼ばれればどこへでも「いきます!」とほいほい行っていたので、よく演奏会の受付やステージマネージャーを頼まれた。要領が悪くて仕事のできない私も、場数を踏めばだんだんと慣れてくる。この時の経験が今かなり役に立っているので、なんでも経験しておくもんだな、と思う。
きっと先生も、それを分かって連絡をくれたんだと思って、私は二つ返事で「それなら是非」と引き受けた。

当日、楽器を持たずにホールへ向かう。到着して軽く挨拶を済ませて、プログラムにチラシを挟み込んだり、せっせと準備をしたりしながら、漏れ聞こえるリハーサルの音を聞いていた。
先生は、プロになりたい学生や若手の奏者だけではなく、アマチュアで楽器を続ける大人のレッスンもしている。誰でも参加できる合宿なども主催していて、プロアマ問わず顔が広い。今回の演奏会もプロだけでなく、アマチュアの演奏家の方や、私みたいにずいぶん前に楽器をやめてしまった方も参加していた。総勢60人超えの演奏は、漏れ聞こえる音だけでも大迫力だった。

リハーサルがひと段落して、取り置きチケットの精算をしていたら、「生駒さん?」と後ろから声をかけられた。
振り返ると、昔何度か先生の合宿でお会いした人だった。年齢も近いので、合宿の度にかなり仲良くしていた記憶がある。

「あー!!お久しぶりでs…」
「なんで出てないの?」

挨拶もそこそこに、食い気味に問う彼の顔はちょっと怒っていた。その勢いがなんだかおかしくて、つい吹き出してしまう。久々に会って、一言目がそれかよ。
「もう吹けないですよ」と返すと、「なんで、吹けるよ。なんで名前ないんだって思ってた。生駒さんいないのおかしいよ、めっちゃ門下生なのに」とまだ怒っていた。『めっちゃ門下生』ってなんなんだ。
「また会えてうれしいです」というと、彼はちょっと笑って「ほんとだね」と言った。

開場時間が近くなって最終確認をしていたら、目の前にめちゃくちゃ見覚えのあるお兄さんがきた。この人も合宿で知り合った人で、優しくて気の良いその人に、当時学生だった私はめちゃくちゃなついていた。

「おー、頑張ってるな、ほれ、これ食べ。」

彼は開口一番そう言って、私にドーナツを手渡し、颯爽と去って行った。さつまいも味のドーナツだった。
「久しぶりとかないんですか!」と背中に声をかける。お兄さんは、振り返らずに笑っていた。

「あー!生駒先輩!」
その後すぐ、高校の後輩が来た。「なんで出てないんですか!?」と遠くから大きい声で叫んだその子は楽器が上手で、東京のすごい大学に進学したので本当に久しぶりだったのだけれど、「ごめん!今世界一忙しい!」と私から会話を断った。
今度は私が「え~!久しぶりとかないんですか!」と言われてしまった。
「うるさい!」と言いながら準備してるふりをして、私はずっと、涙をこらえていた。

なんだこれ、なんだこの感じ。
今、なんか、めちゃくちゃ、あのときみたいな、まだ、音楽やってるみたいな気分だ。

私の心は過去に引き戻されたまま、重い扉の奥で、ステージの幕が上がってしまった。


開演中、その日の運営をしていた大学の先輩が受付まで来てくれた。
開演前に話しきれなかった残りの部分を軽く打合せる。その人は楽器も上手けりゃ仕事もできるスーパーウーマンで、めちゃくちゃお世話になった先輩だ。その日も、出演者なのに舞台裏をぶん回していた。
打ち合わせがある程度済んで、少しだけ世間話をした。
リトルトゥースなその先輩は東京ドームの抽選に外れたことにかなり憤っていて、「あれ当たってる人いる!?」とぶちギレていた。そのあと「今日の準備、やったつもりやったけどまじでできてなかった。ほんま反省。」とひとりで最速反省会をしていた。全然そんなことないのに。自分に厳しくて、お笑い好きな先輩は久々に会っても変わってなくて、やっぱりめっちゃ好きだなーと思った。

そうこうしているうちに、次のステージがはじまる。
先輩は楽屋へ戻る前に、「生駒ちゃんいてほんま助かった、ありがとう」と言い残して去って行った。
先輩とは何度も一緒に仕事をしてきたし、何度もありがとうって言ってもらってきたのに、なぜかその“ありがとう”が、急にぐんっと、心に来てしまった。

もうやめてくれ、優しすぎるよ。
本当にみんな久しぶりなのに、今日がなかったら、二度と会えなかったかもしれないのに、私はもう、音楽をやめているのに。
なんなんだ、全員。その昨日も会ったみたいな、またすぐに会えるみたいなさりげなさは。なんで、一緒に舞台に立てないことを悔やみ、何気ない話をして、裏方仕事をねぎらい、再会を喜んでくれるんだ。

3時間に及ぶ演奏会の終わり、アンコールで演奏されたのは『76本のトロンボーン』という曲だった。その名の通り、たくさんのトロンボーンで演奏する定番曲だ。
先生のために演奏したいと集まった、60名以上の音色がホールの扉越しに聴こえてくる。そこにプロもアマチュアもない。ブランクも、母校の名前も、持っている楽器のメーカーも、それぞれの確執も関係ない。
ただ、音楽が、そこにあるだけだった。

そらで歌えるくらい何度も演奏したその曲は、私をまた、過去へと連れていく。
先生の近くにいると、アマチュアの演奏家の人と関わる機会が本当に多かった。
学校の先生をしながら吹奏楽を楽しむ人、仲間うちでアンサンブルを楽しむ人、コンクールにチャレンジし続ける人。
いくつになっても楽しみ続けられる大人を、私は高校生の頃からずっと見てきた。大学生になってからは、年の近い先輩たちがその人たちみたいに楽しめる大人になっていく瞬間も、何度も見た。何度も見たのに、どうすれば良いか知っていたのに、私はその選択を、自分で捨てた。

もし今日の舞台に立っていたら、きっと先生も、同期も後輩も先輩も、みんなも当たり前に受け入れて、喜んでくれたと思う。きっと楽しかっただろうし、舞台の上で、笑顔で先生に感謝を伝える最後のチャンスだったかもしれない。
あーあ、と思う。
いつだって私の邪魔をするのは、ちんけなプライドと、ちっぽけな虚栄心だ。

終演後、先生のところに今日の会計を報告しに行った。
先生は「さすが、生駒さんの事務処理能力。裏方は任せて安心やね。」と笑顔で言ってくれた。
突然褒められたのがなんだかはずかしくて、「それだけは門下イチですね~」とふざけて返事をしたら、先生はくすりとも笑わずにこういった。

「ううん、門下の中で、とかじゃないよ。卑下しないで、自信を持ちなさい。」


「…ありがとうございます」

震える声で必死に絞り出した感謝を残して、私はそそくさと部屋を出た。

忘れてた、いつもそうだった。
先生はいつだって、絶対に、私を否定しなかった。

「しんどいなら休みなさい、ムリして吹かなくてもいい。」
「謝らなくていい、『すみません』を口癖にするな。」
「うまくいかない自分を否定しないで。本番でも挑戦し続けなさい。」
「どんな形でもいいから、たまに吹きにおいで。」

トロンボーンしか得意なことが無いのに、調子を崩して楽しく吹けなかった15歳のあの夏も、受験に怯え、なぜか孤独だった17歳の冬も、バストロンボーンに転向してめちゃくちゃ楽しかった19歳の春も、練習から逃げて裏方仕事ばかり引き受けた21歳の秋も、音楽に勝手にけじめをつけた24歳の春も。

先生は、私の師匠はずっと、言葉で、抱えきれないくらい大きな愛で、大切なことと、音楽の楽しみ方だけを教えてくれていたんだった。


きっとこの先も、もう私は楽器を吹かない。

でも今日、この舞台に立った人たちには、先生には、音楽を愛する人たちには、吹けなくなるまで、死ぬまで、ずっと、音楽を楽しみ続けて欲しいな、と心の底から思う。


おい、15歳のお前。目の前の大人の笑顔をしっかり見ておけ。
おい、17歳のお前。誰も敵じゃないよ。その言葉は信じて大丈夫。
おい、19歳のお前。調子に乗るな、お前には基礎が無い。
おい、21歳のお前。裏方仕事が楽しいか?絶対に真面目にやっとけ。
おい、24歳のお前。大丈夫。その道の先は絶望じゃない。
おいおい、若手プロ奏者のTwitterを片っ端からミュートするな、Facebookを消すな。大丈夫。今はダメでも別にいい。

色んな形でずっと音楽を続ける人たちを、夢を追う人たちを素直に応援できる日が、お前にも来るよ。

それは多分、お前が思ってるより、少しだけ早くね。

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