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分析するのではなく、感じてみる

最近、ある方と話していてはっと気づいたこと。

例えば
体調が悪くなったり
あんまりよくないことが起こったり
事故とか、病気とか、ついてないこととか
そういうとき、
「これっていったいどんな意味があるんだろー」って
分析が始まること。

特にスピリチュアル、精神的なことを学んでいるとありがちなのかもしれない。

例えば大腸は「怒り」と関係してるから
今調子が悪いってことは「怒り」が自分のなかにあるのか…とか。

いやぁ、めっちゃよくやる!やってた!

あと感情の周波数のレベルをグラフみたいにしたやつ。

低い波動が「罪悪感」「恥」とかで
高い波動が「喜び」「感謝」とか。

これも、「ってことは、今の私の波動はこのあたりか?」と
分析が始まる。

…これってさぁ。
自分に静かに問いかけてみると
「そんなことどうだっていいから、今、感じてることを感じ切ってよ」って思うんだ。

疲れるんだよね。分析が始まると。
自分をジャッジしているから。
「自分は今この波動、ってことは低い」とか
低い状態の自分は良くないとジャッジしたり
この感情は低い波動だから感じないほうがいいんだ、とか。
体調が悪い、のどが痛いってことは言いたいことが言えてないってことか?とか。(めっちゃやってたー)

スピリチュアルな学び、精神的な学びは大好き。
でも、その学びが
「自分を縛り付けたり、ジャッジしたり、制限をかけたりする」
ものではあってはいけないと思うんだ。

分析だけされている
自分の身体や心って、
さみしいと思う。

「あ、体調崩したけど、それでさらにジャッジまでされてる」
「この感情はあんまり感じないほうがいいんだね」

悲しいよね、さみしいよね、そんなことされたらさ。

自分のなかに、いわゆる低い波動とされる感情が湧き上がってきたときも
「そっかぁ」と一緒にいてあげる。
時間があるなら、胸をぐーっと感じながら
一緒に感じ切るよ。

体調が悪いときも、そこにどんな意味があるとか、まっさきに考えてたけど
自分の身体の声をきいて
必要な食べ物を食べたり、休息を一緒にしよう。

それで一時的に低い波動や、あんまりよくない状態だったとして。
それが何?
一生そこにいるなら考えものだけど、
時間がたてばまた別の状態に自然と変わってゆくよ。

スピリチュアルは「完璧な人間」になるためのものではないんだよね。
常に高い波動をキープするとか、
それで人生うまくいっちゃうとか、
引き寄せちゃうとか、
そういうの大嫌いなんだけど
そういう観点で自分や物事を見ている、ジャッジしている自分がいるなーっていう大きな気づきだった。

感情も体調不良も「お知らせ」ではあると思う。

でもそこに意味を求めすぎたり、
ジャッジをしないで

まずは湧いてきたもの、今の自分の感じを
味わってみる。
今の自分と一緒にいる。
できれば、共感してあげる。

それだけで自分のなかにいる小さなひとはホッとするみたい。
「あ、完璧じゃなくてもいいんだね」
「私のことをみてくれるんだね」
って

そうすると、どんな状態のときの自分も
大切に思える。
無意識にジャッジして責めていたころより
うんとのびのびしている感じ。

完璧なあなた
立派なあなた
いつもにこにこすてきなあなた
以外のあなたも、認めてあげられるようになったなら。

そしてその「完璧なあなた」を目指す旅がスピリチュアルなのではなく
「自分を知る」ことがスピリチュアルなのではないかなって

そんな風に感じています。

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