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思いをもって仕事をする、ということ。

「お前はどうしたい?」

初めての上司からよく言われた言葉である。
それは大きな話でなはく、トラブル報告や業務報告といった日常業務から常に問われていたことだった。この問いはシンプルながら大変強力なもので、地位によらず仕事に対する主体性と専門性――つまりプロフェッショナルとしての行動を要求するものだ。

若かりし頃、上司からこの問いが出てくるときは決まって準備不足や甘えの感情があるときだった。

あるとき、自分が関与してない過去のプロジェクトでトラブルが発生してチームにクレームが来たことがあった。自分としてはそのプロジェクトに1ミリも関与してないし、チームの公式なロールとは異なるものだった。しかし、自分がリーダになる前にチームとしてイレギュラー的に支援した仕事だったのでチームにクレームが来たのである。その案件は引き継ぎされていなかった上に、当時関与したメンバーは一人も残っていなかった。

当時、私は製品開発チームを任されて間もない頃で、文字通り右往左往していた。タスクリストにはチームメンバーが1年間で対応できる数倍のタスクがあり、そのほとんどに「問題」というタグがついていた。残業が常態化していて家にいる時も頭の中で仕事をしていたほどだったが、それでもタスクリストは減るどころか増えていく一方だった。ビジネスが急成長するとき、外目に見れば輝いて見えるかもしれないが、「中の人」は泥臭いものである。

こんな風に大量の業務に忙殺されていた私は、そのあずかり知らぬクレームがやって来たときに正直にいって「勘弁してくれよ」と思った。そんなことは知らんと言いたかった。とはいえ、どうしてよいかわからず対処方法を上司に相談したのだが、主体性がないのは見え見えだったと思う。

こういうとき、その上司は決まって「お前はどうしたい?」と聞くのである。そして、冷静かつ厳格な雰囲気でその仕事の意義と経緯を短く伝え、話を終える。話が終わるころには自分の不甲斐なさに落胆しつつ、解決策を考え始めている。このときもそうだった。
今思い返せばその上司はコーチだった。不器用で社会性に欠けた私が今でもビジネスの世界に居られるのはその上司のおかげだと思う。

仕事に自分の思いを込めるというのはシンプルな話に感じられるかもしれない。しかし、シンプルだからこそ難しいし本質をついていると思う。もし自分の思いが仕事で表現され得るならば、その仕事は自分にとってアートになるだろう。それはまさに私にとって笑顔になる瞬間である。

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ここにあげた話は日常的な些細なエピソードに過ぎないが、今でもそのときの映像と感情が自分の中に残っていて、弱気なときに頭をチラつく。

そして、ここ最近、幾度となくこの場面が脳裏をかすめている。
その理由は明白で、新しい局面に戸惑っているからだ。

2022年3月22日に自分の置かれた状況が大きく変わる。
それは一般的には大きなチャンスであるが、私にとっては大きなものを手放すことになる。2018年ころから仕込んできた目論見を閉じることなるからだ。

もっと言えば、その目論見は10年前にSEからデータサイエンティストに転身したきっかけとなった小さな着想が起源であり、10年がかりの個人的なテーマであった。ひとりスカンクワーク、ひとりリーンスタートアップとひそかに呼んでいたその試みは紆余曲折を経て公式な活動となっていた。それは今でも可能性があると思っているものだが、新しいミッションからはやや距離のあるものである。

したがって、自分の手からそのテーマをそっと手放さなければならない。
ゲリラ戦は終わったのだ。

その要因は様々であるが、自分の力量が足りなかったからに他ならない。この戦の終わりは2021年の初夏から予感していた。このような予感を抱く時点で負けなのだろうが、あるとき行く末が見えてしまったのも事実である。誰かに終わりの鐘を鳴らしてほしかったのかもしれない。ただ、その終わりに向けた準備は怠慢だった。僅かな可能性にすがり無様に足掻いていたのだ。

気持ちの整理をつけるのに時間がかかった。

この話を聞いてから48時間くらい放心していた。心ここにあらずな2日間を過ごした後、フラフラと本棚から何冊か本を引っ張り出して読みふけった。何時間か無心に本を読み続けてようやく正気に戻ることができた。ただそこから悶々とした日々を過ごして今日に至った。

なぜこんなにも揺さぶられたのだろうか。
恐らく、個人的なテーマの「終わり」を突き付けられたことと、新しい局面への恐怖からであったと思う。ただ、その終わりを突き付けたのは誰でもない自分自身だ。新しい局面はきっかけに過ぎない。
自分自身で始めたことを自分自身で終わらせた。組織人でありながらそういった選択ができたことは感謝してもしきれるものではない。

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今朝からアニメ「平家物語」の主題歌をヘビーリピートしている。
自分がやってきたことなど歴史の一コマにもならない小さな小さなものだが、その歌詞が胸に刺さりまくって年甲斐もなく涙が止まらなくなってしまった。諸行無常な世であるからこそ自分で意味を見出し、全力を注ぐことができるのだと思う。

あの花が落ちるとき その役目を知らなくても
側にいた人はきっとわかっているはずだから

引用元: 「光るとき」羊文学,(作詞・作曲 塩塚モエカ)
 

「光るとき」を聴きながら感傷に浸っていたとき次女が部屋に入ってきた。私は振り向きもせず「仕事をしているから入らないで」と嘘をついた。
ぐしゃぐしゃになった顔を見せたくなかった。
嘘をついてごめんなさい。

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過去を手放す覚悟ができれば、新しい道が開ける。
これは真実だと思う。ようやく顔をあげることができた。
いまは晴れやかな気持ちでいっぱいだ。
新しいロール、新しいミッションの元で全力を尽くす。全力でやってだめなら違う道を探す。自分の限界は自分で決める。それだけだ。

顔を上げるきっかけとなった言葉もまた「お前はどうしたい?」というものだった。今これを言ってくれる人はいない。自ら問わなければならない。新しい局面を終わりと捉えるか、学びの機会と捉えるか。それは自分自身にかかっている。

前向きに自分の思いを入れていくことから始めてみたいと思う。

#はたらいて笑顔になれた瞬間

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