見出し画像

私版「人間失格」

人生を数十年こなしてきてわかったことと言えば、人生は花道だけじゃないってこと。

将来の夢だの理想の生活だの憧れだのなんだのかんだのというやつを、細やかながら抱かせてもらっていると思う。でも小さい頃よりも確実に、格段にそれを叶えるぞ!みたいな意欲は減退しているし、目の前に出てきたハードルを越えたり、階段を一段上るだけで精いっぱいだ。なんというか、何もかも簡単じゃなくてうんざりすることばかり。これでも恵まれた人生なのは理解していて、何かは確実に欠落した人間だけれど、豊かな生活を送ってきているし、そのあたりにスポットを当てて「何を腑抜けたことを!」と説教されたらぐうの音も出ないのだが。

処世術というやつもある程度は身に着けてきて、こういう時にこう振る舞えば基本的にうまくいく、みたいなものはわかる。私は恥をかくことに対してとても嫌悪感があるから、特に数多のものを軽くいなしてきたほうだとも思う。実になんというか実りのないというか、平坦な道ばかり選んできたような気がする。楽なほうに流されやすい。いつも妥協して生きてきた。この歳になって気が付く未熟さに飽き飽きとするしかもうない、このような人生が非常に残念でならない。

正に私は「恥の多い生涯を送ってきた」のである。

それは育ち切った実のならない枯れた木だ。間引きされずに残った残念なもので、最終的にくずかごへ向かう身だ。そう思えてならないのだ。

そう悲観的になるなよ、と知り合いなどは声をかけてくれるかもしれない。知り合いではなくとも励ましの言葉をかけたくなる場合もあるだろう。だけれど、しかし、私の人生の舵取りは私であるのだ。貴方は私の人生の船頭にどうしたってなれない。私が貴方にとってのそれになれないように。私がこの人生を海の底に沈めてしまえば、誰かに惜しまれようがもう二度と戻らないのだ。

それに惜しまれるかもしれない、なんていう最後の希望に縋ってしまうことも苦痛だ。私は慕われていたと胸を張って言えるのであれば、きっとよかっただろう。けれど、私はどうしようもない駄作である。私が死して残ったものにつく値などブックオフの古本よりも安価だろう。いや、値が付けばいいほうかもしれない。わはは。自己評価の低さは意識の低さである。

というような、ひねくれたというか、曲がった人間として成熟してしまった。人生の薄っぺらさだけはギネス記録に登録されてもいいかもしれない、こんな不名誉で名を残したくはないが。

もし輪廻があるのならばきっと次も人間になるだろう。人間として生まれ、人間未満の存在として生きる苦行を背負わされたいものだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?