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どうなってしまうのか。卒制ができるまで/08

21.12.07

本当におひさしぶりです、こんにちは、ほりーです。

卒制の最終合評まであと2週間を切ったあたりです、毎日絶望してますお疲れさまです。
2回目の発表以降は本を読んだりリサーチしつつ、miroに書きなぐっていくと言うことを繰り返していました。その過程で、モノがないと評価しようがないだろうということで、色々とモノを制作する案を出したり提案していただいたりと、あれやこれやとぐるぐるしているうちに今日に至ってしまいました。(いっぱいある……あるけど……)

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現在は書籍をやめて座椅子を制作しています(図面を描いて、実作は得意な学生にお願いしている)が、実体のあるモノを成果物として提出することはあまり考えていません。

と、いうのも、現在の卒制の目的が、考えてきた過程や関連の資料を公開することで、考えるきっかけを生む。といった形になっていて、今まで広げたことがまとまるというか、一本の串に刺さって連なったような、そんな状態になっています。(10転くらいしている)

今春にあったテーマ発表の頃のnoteを見返すと、テーマを探すことを卒業制作の目的にいたのだなと感じました。実際、紆余曲折しながらもこの軸は通っていたように思います。

「あ、そういえば」みたいな思いつきのような状態、感覚でひとつのテーマに集約されました。
それが、
生きること、これからの生き方について
です。本来テーマはどちらかというと絞って行くものだと思うのですが、私の興味は明らかに包括的、もしくは超個人的な部分にありました。
そしてこれは主観的で概念的・コンセプチュアルなテーマで、結果を求めるというより一個人の事例、状況を軸に思考(思索・考察)を通してこうありたいという一種の可能性としての未来を提起することなのかもしれません。
アウトカムがあって、アクティビティがしっかりとアーカイブされていればアウトプットは意識しなくても良いのでは。みたいな話になるんですかね。
世の中の大半のものってアウトプットしか見えなくて、そのものの抱えていた問題とか生まれるまでの思考の軌跡とか、そういった創造的な価値のようなものが消費者にウケるかどうか、売れるかどうかってところの軸でジャッジされるのってなんか勿体無いと言うか、壮大な無駄を生んでいるように思うんですよね。
この辺りからキーワードは「考えるための」です。私たちは今考えるということができていないんじゃないか、どうすれば考えるという受動的ではない状態に持っていくことができるのか。
そして、見聞きしたり目の当たりにした人が自然と考えてしまうような仕組みを作ることはできないのか。

これら、「これからの生き方を考え」、「その過程を公開すること」で「考える機会を生む」の3つが集約されて今の卒制の形へと繋がっています。
最初と今とで言ってることは、たいして変わっていない感じがしますね。


一回目の合評で「これからの生き方について、働き方と暮らし方のアプローチから考えます」といった内容を発表した際に、その裏側にあるけど重要なテーマを言語化しておいた方が良いと言われていて、それがなになのかが一向に見えてこなくて、ずっと引っかかっていたのですが、最近になってようやく、なんで生き方について考えたいんだろうと思うようになり(今更)、暮らしに興味がある裏には何があるのかを考える様になりました。

まず、私は昔から暮らしに関することに興味があった反面、働くこと、なりたい職業、夢、といったものは大してありませんでした。そして、自分の住む空間を自身で考えられるようになりたいと思い建築デザイン科のある高校に進みます。
二年生で進路を考えたとき、大学に行く価値を理解できてはいないが、就職にも違和感がある、なので起業について学べるような所に行こうと言うことで京都芸術大学(旧京都造形)に新設されたクロステックデザインコースに進学、一人暮らしを始めます。
三回生になって同級生数名で起業してからは、学生の働き方改革を進める事業だったこともあり、生きるためにやりたいことがない状態で就職することへの危機感を感じるようになっていきます。
この危機感は、卒業と同時に働かないと、食べるものも買えず生きていけないという現状と、とりあえず就職することで、生きるために働く状態が、働くために生きる状態なっていく、という逆転現象が起こってしまうのではという懸念からくるものでした。

残業やシャドーワークの問題なども含め、こうした働くことと暮らすことのバランスが崩れている現状に、日本の新卒の人ってもしかして、一日の中で好きなことができる暮らしの時間が殆どないのでは?と考えるようになり、働くことが中心の今の考え方から、暮らすこと、一日をどう過ごしたいか、から生き方を考えることが重要だとより思うようになっていきました。

そして、この生き方を考えたいという思いの根底にはどんな思考があるのかを考えたときに、私は将来に希望をあまり感じておらず、精神面が不安定な事もあって、就職すると自身の精神衛生を保てないのではないか、死ぬのは怖いし死にたくはないが、生きているのも苦痛だと感じている、そうした思いがあると再認識したことで、どうすれば私にとって苦痛のない(ストレスフリーな)生き方が可能なのか、私のような人にとってウェルビーイングな生き方とはどんなものなのか、を知りたいのだと理解しました。

これが見えていなかったテーマだとしてまとめたmiroを見返したときに、日常生活や会社を通して考えていたことが、確かに繋がっていると感じることができました。

21.12.09

昨日、まとめのために思っていることを紙に書き出していたら、卒制としての活動と出そうとしている作品にずれを感じました。なんというか、過程が結果で結果が過程なのか?なんて思ってmiroに書いてみた所、本当はどうなのかよくわからないですが、以下のように卒制としての活動は、個人的な活動と作品化に2つの流れがあって、「過程1」が「結果2」で「結果1」が「過程2」になるのではと、そんな仮説を立てました。

石(いす)からはじまる - 個人的活動と作品化

こうして見ると、個人的活動の結果であるテーマの発見は、作品の中では過程でしかなく、テーマを発見する過程こそが作品の結果である、そう言えるのではないか、なんて思い、納得した気持ちになりましたが、ここから先はどうしたら良いのでしょうか。

…………。

結局のところ、私が何を考えてどんな結論に至って、その過程で何をして何を作ることに落ち着いたか。なんてのはさほど重要ではないのかもしれません。
全くまとまりのない、もしくは無限に広がるネット上の情報と、しっかりまとまりとして固定された書籍などの情報の中間的な存在として、つながりのある不完全な情報のまとまりがあってもいいじゃないかってことなのかもしれないですし、この卒制期間中、また会社での取り組みで得た最も大きなものに「カフェという場の価値」の発見というのがあって、その中心にある「対話の価値」を展示の中で実践したいのかもしれないです。

このあたりの詰めが重要なはず、いや絶対重要なのですが、現在進行系で混乱状態です。


混乱してます。いつもです。



余談?

正直な話、考える機会を本当に生みたいと思っているのかは、自分自身よくわかっていないところで、どこか気持ち悪い部分でもあります。結局自分のためだし他人のことなんでどうでもいいって思っているんじゃないの?と尋ねていますが、はっきりしません。

自身の思想、価値観、考え方といったものが、ミーイズムかエゴイズムか、自己中心主義なのか、利己主義なのか、功利主義なのか、利他主義なのか。この主義に関しても定義がどこか曖昧だったり解釈に幅があるようではっきりしませんでした。時と場合によって変化・使い分けみたいな状態なのかもしれないですね。


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