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「検索と紙とペン」自身と対話し続ける、私を知る毎日。/卒制ができるまで

12月15日

こんばんは、昼夜逆転をなかなか逆転させられないほりーです。

卒業制作の合評まであと1週間くらいになりました。書いている場合ではないのですが、書きたいと思ったときに書くのが一番だと思ったので書くことにしました。

知り合いはみんな「え、卒制?終わらないよ……もうおしまいさ…………」といった雰囲気を醸しつつ着実に完成に向けて進んでいるので、なんとなく卒業おめでとうという気持ちになっています。私は本当に終わるのか不安です。


「ん~っと、……卒業するんだっけ?」


毎週ゼミの時間に言われています。

ツライですね。
ほんのり笑顔で言われますが、笑っているわけではない。みたいな重みがあって本当に笑えない。こわいしなんかもう、いたい。そんな感じです。


ここから本題、私は、この卒制でどこが作品なのかよくわかっていません。先日書いたnoteに載っていた内容からすれば、自身の個人的なテーマを発見することを目標に取り組んできた物事の「思考の過程」を公開することで、その問題意識について考えるきっかけを作る、ことに重きをおいている様でした。

「これからの生き方を考え」、「その過程を公開すること」で「考える機会を生む」の3つが集約されて今の卒制の形へと繋がっています。
個人的活動の結果であるテーマの発見は、作品の中では過程でしかなく、テーマを発見する過程こそが作品の結果である、そう言えるのではないか、

ただ、作品として何を伝えたいのかがいまいち見えていなかったというか、伝え方としてmiro(オンラインホワイトボードツール)を使って思考の過程を可視化するというのはあったけど、じゃあそこで見せていることで何を伝えたいんだ、どこを見せたいだって言われるとなんとも言えない。

対話の機会をつくる、考えるきっかけをつくる、といっても、なにについて考えてほしいのかとか、そういったことが見えてきていない。なんか、よくわかんない。


そうしたことを日々ぶつぶつと呟きながら机に向かっているのですが、最近は期限が迫ってきている事もあってか、私の知らない私に出会う機会が増えました。具体的には、自身のテーマ「苦痛のない生き方は可能か」といった卒制を通してなにを知ろうとしていたか、を発見したことだったりです。

こうした発見をするとき、私の机の上では検索と紙とペンが活躍しています。これらのツールを使って、私自身と対話をしています。

席に座ると、とりあえず今思っていることを目の前の紙の左上に書く、つぎに右上に日付を書く、そして左上のタイトルから連想されている言葉を、手がペンを使って書き出していく。

これを繰り返していると、ふと気になるワードが浮かんできたりする。この思いついた言葉を検索して意味や類語について調べてたり関連する記事読んだりする。こうしていくうちに紙は2枚3枚を増えていき、4枚目あたりでまとめの紙が自然と出来上がっている。

この紙を見返すと、紙の上で私が話をしているのがわかり、数枚前の疑問が徐々に解消されていく過程が追える様になっている。この対話体験を繰り返していることで、私について知る機会が多くなってきています。


それで、今日発見したことがあります。それは、私が卒業制作で提案したいことです。

私はこの現実を生きづらいと感じていました。働かなければ生きることができない現実、暮らしについて考える余裕がなかなかない現実、この苦痛な現実から逃れることは可能なのか、苦痛のない生き方はあるのか、それを探すために大学に来たようなものでした。
一人暮らしを始め、自身にとって苦痛のない暮らし方を模索し、会社をチームで作り、カフェを構想しながらこれからの働き方について議論し、そうした生き方について思考しつつ、卒業制作ではこの「現実」とはなんなのかについて調査することで、生きづらい世界について考えることを行ってきました。
その結果、生きること、生きていることを見つめ直すにはどうしたらいいのかを考えられる場所としてカフェという場に着目するに至り、カフェという現実に身を置くことで、生きづらいと感じている現実から避難することができるという、生きるための現実逃避の提案に行き着きました。

この、生きるための現実逃避先としてカフェを選んだ理由がmiroに思考の過程として公開されることで、このmiroが考えるきっかけを生むものになるのだと、そうした考えのまとまり方になったという感じです。


この発見と前後して、その作品のタイトルも決まりました。

まず椅子の名前なのですが、これは以前から決まっていて「bathron」と言います。調べてもほとんど情報が出てこないのですが、古代ギリシアにあった2人以上で座れる背もたれのないベンチのことを指していて、当時の学生が哲学者などの講話を聴講する際に使用された代表的なベンチだそうです。

現在制作している椅子は一人がけのものなので、ぱっと見ではbathronとは呼べませんが、ここであえて一人がけの椅子にbathronと名付けているかと言うと、それは自身の中にいるもうひとりとの対話を意識しているからです。


そしてこの椅子を含めた作品としてのタイトルは、「カフェと生きる身体」になりそうです。現時点では確定ではないのですが、おそらくこのまま行くと思います。(22.1.11・なりました。)
ここでいうカフェはパブリックとプライベートとのあいだであり、多様な目的の人々が入り交じる中間的な空間を指しています。そしてこのカフェには、他者、文化、現実といったものが含まれています。

生きる身体は、今の人々が社会との関わりを中心に考えすぎていることから、自身のことを蔑ろにしているのでは、ということを踏まえて、目の前のありのままを見ることを意識しています。ここにはカフェに含まれる他者、文化、現実に対応して、対話する私、接続する心、対峙する体といったものが含まれています。

これらの関係は、私を構成する要素が、心と体と社会との関わりである。という考えで成り立っています。当たり前と言われる「社会」との関わりから避難する、その避難先の「社会」としてカフェを提案することで、心と体をゆるめる機会と、それによって私を見つめ直し、これからどんな「社会」で生きれば苦痛がないのかを探し出すきっかけになればいいな、そうした思いからこのタイトルになりました。




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