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太陽の塔になにを感じる

先日、Amazonプライムビデオで『太陽の塔 TOWER OF THE SUN』というドキュメンタリー映画を観た。私は太陽の塔を見に行ったことがあるが、岡本太郎が特別好きだったわけでもなく、芸術を志しているわけでもない。なのに、この映画は私の胸を、脳を、大きく揺さぶってきたのだ。

揺さぶられた理由を言語化することは自分でも難しいが、そんなよく分からない感情のまま、岡本太郎にまつわる場所を訪れていた。その中で感じたことなどを少しでも書き留めておき、今後どこかで振り返る機会があるといいなと思い、恥ずかしながらnoteに綴ってみることにした。


まず、映画が始まってすぐに出てくる、違った世界で存在する太陽の塔。画面越しからでも、その異形さ、不気味さ、神聖さ、なんと伝えたらいいのかわからないが、とにかく色んな感情が混じり合う存在としてそびえ立つソレに、鳥肌が立つ。

遠くからでもわかる存在感


映画は進み、太陽の塔を制作していた当時の関係者や、様々な分野の専門家たちのインタビューに切り替わって行く。飽きないインタビューの編集や、映像のかっこよさは映画としても見どころがあるのだが、それ以上に驚くのがインタビューの人数が多いこと!

話は大阪万博から、岡本太郎だけに留まらず、社会的、民族的、生命的な内容にまで広がっていく。この情報量の多さに集中力が途切れることが許されないのだが、なぜかそれが心地よく、私の中でスッと脳の中に入ってくる。難しい内容だが、それを言語化する専門家たちの話を聞くことで、どんどん岡本太郎、太陽の塔を知ることができている気がするのだ。そして、それを元に人間というものを知ろうとしている自分を感じる。

私は、岡本太郎は才能のある天才なんだと思っていたが、それだけじゃない。才能だけではなく、色んな面から学び、人間、そして自分自身に向き合い続けてきた人なのだと思った。
そうでないと、こんなに専門家たちが出てくる必要がない。色んな分野の人たちが出てきて、やっと岡本太郎の一側面を知れたような気がするなんて、どれだけ層が厚い人なんだろう(ため息)。奥深い人だからこそ、太陽の塔ができた。そう考えると納得できるのだ。

生命の樹


映画の冒頭から出てくるものとして目を引くのは、太陽の塔に限らない。織田梨沙さんが持っている『縄文火焔型土器』は、学生時代に教科書で見たことがあるものだった。
昔、社会の先生に説明されたことを思い出す。どう考えても使いづらそうだが、立体的で複雑な飾りがあしらわれた縄文土器。シンプルで丸みを帯び、今の食文化にもつながる実用性も兼ね備えている弥生土器。まさかアートだなんて考えたこともなかった。しかし、岡本太郎は縄文土器に美しさ、生命力を感じた。縄文土器論では、考古学的な解釈ではなく、縄文土器の造形美、縄文人の宇宙観を土台とした社会学的、哲学的な解釈をしている。

また、生前「火焔型土器は深海のイメージだ」と岡本敏子さんに話したそう。名前と逆のイメージに不思議な印象も受けるが、どうゆう目で縄文土器を見ていたのか、社会を見ていたのか、人間を見ていたのか。その岡本太郎の世界の見方を、少しでも感じたいと思えた。

箱根美術館で見つけた縄文火焔型土器


今、本気で生きているのか。縄文土器に、太陽の塔に、岡本太郎にそう聞かれているような気がした。自分の血にも流れている、原始的な感覚をいつのまにか押し殺しているのではないか。むしろ、それに気付いていない、いや、気付かされないようにされているような日々。
そんな毎日をもう一度見つめ直してみたい、そう思わせてくれたアートに出会えて良かった。何も話さないのに、様々なことを教えてくれる芸術の存在の凄さに胸を打たれた。そして、映画もその表現の一つだと思う。色んな表現者の人々に心から尊敬したい、そんなこの頃である。

明日の神話

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