未来の価値
ここ最近、心がささくれ立って仕方がない。
原因は、Twitterで見かけた旭川の事件の話だ。
今はもう10年ほど前になる高校時代、わたしもいじめを受けていた。
今回の彼女ほどの凄惨さはなかったかもしれないが、当時のわたしのメンタルを壊すには十分だった。
フラッシュバックして辛くなってしまった。
なのにこうして文章に書き起こそうと思ったのは、加害者への対応がまた話題に上がったことだった。
「加害者にも未来があるから」
わたしもそっくりそのまま同じセリフを、担任に言われたのだ。
わたしが受けたいじめは、いわば「ネットいじめ黎明期」といったかんじのもので、今はなき前略プロフの掲示板やブログに悪口が書き込まれたりした。わたしが趣味で絵を描くなどして通っていた同人サイトの交流掲示板にまで、それは及んだ。
母がそれらの画面を印刷したものを学校に持っていき直談判したが、先生達も対処法がよくわかっていないようだった。
しかし時期が高校三年生の春だった。いじめグループの中の三人ほど、推薦で進路が既に決まっている子がいた。
そこで担任からのそのセリフがあったのだった。
受験もあるので、実質登校するのは年末までだ。こんなところで不登校や休退学などしてたまるか。あんな奴らより良い大学に行ってやる。わたしを奮い立たせるものは、もはや意地だけだった。
どうにか半年耐えたが、毎日しにたかった。
第一志望の大学の合格発表のとき、本当に久々に、母に抱きしめられたことが未だに忘れられない。合格した当のわたしよりもワンワン泣いていた。
「本当に、このままあなた、しんじゃうかと思った…」とか細い声で言われた。このいじめで蝕まれたのはわたしだけじゃなかったんだ、と改めて怒りが湧いたのを覚えている。
アラサーとなった今でも、当時のことを夢に見ることがある。
いじめられた側の傷は一生残るとはよく聞く話だが、わたしも身をもってそれを知っている。
(ちなみに風の噂で聞いたが、件の担任は今は母校の教頭になっているらしい。腐ってる。)
そんなわたしも、時を経て一人の子の母となった。
今回のような凄惨な事件のニュースを見かける度、子供を加害者にも被害者にもしたくない、という気持ちを強くする。
子どものために正しい人間でありたいな。
でも、そもそもわたしは"正しい"のか?
わたしの正義が子を苦しめたりしてないか?
自問自答してはぐるぐるする。
それでも、誠実に生きてはいたい、生きるぞ、と改めて背筋を伸ばしてみる。
もし子が被害者になったら
理不尽から逃げても良いのだと手を引っ張りたい。誰よりも味方でいたい。
もし子が加害者になったら
たとえ身内でも、きちんと怒れる人間でありたい。
この子はどんな人になるのだろう、と子の寝顔を見ながら思う。
と同時に、そんな未来さえ描けなくなってしまった彼女のことを思うと、胸が潰れそうになる。わたしだって同じようになっていたかもしれなくて、でもそうなっていたらこの子には出会えていないのだと思うと、怖くて震える。
正直今でも希死念慮は消えないのだけど、子どもを見ると、わたしも生きててよかったかもなと思えるのだ。
加害者の未来は、確かにあるのだろう。
きっといじめたことなんて忘れて、これからも生きている・生きていくのだろう。
でもそれは、わざわざ被害者の未来を潰さないと得られないのか?
そこだけは未だに納得できかねる。
彼女のご冥福をお祈りすると共に、
いじめをいじめとだけで片付けない世界を
未来のために作っていく一助となれればと願っている。
#日記 #いじめ#旭川14歳少女イジメ凍死事件
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