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銀行の個人営業(リテール)を辞めた話⑥

時を少し現代に戻してみる。
私が銀行を辞めた理由について、書きたい。

やはりパワハラがあったのだと思う。

この“思う”というのは、
周りから見れば明らかなのだが、当時の僕は精神的な疲労に加え肉体的な疲労も抱えており、自身に降りかかることを正常に反応できていなかった。

出向先(辞める直前はグループ会社に出向していた)に上司から、以下の言葉をかけられた記憶がある。

「〇〇(仕事に関わる)の知識が無いのならせめて役に立つくらいしてくださいよ」
「この仕事、ほんとにやれますか?嫌なら早めに辞めた方がいいですよ。」
「なんでそう思うのですか?それはなぜですか?(答えても)なぜですか?」
「なぜ黙ってるんですか?私は質問したんですよ?この待ってる時間が無駄なんですが。」
「(メール文にて)なぜ、名前とお疲れ様です。など記載が無いのでしょうか。理由や意図を教えてください。」
「(自身の案件で無く振られたもので量が多く、思いものを集荷しなければならない時)あの誰にも相談せずにここまで来てますけど、ほんと一人で行ってくださいね。僕知らないんで。」
「(上司の寝坊により予定が遅れそうな時の車運転時)あの、もっとアクセル踏めないんですか?これじゃあ遅れるんで、変わってもらっていいですか?」

これ以外にも心に刺さる言葉を約半年間にも渡る期間で浴びたおかげで、私は不眠症や抑鬱状態を患っていた。

具体的には、朝、身体中が痛くて起きれない。
それは月曜日に多い。
休みの連絡を入れると身体が軽くなり、体調が少し良くなる。

会社に行くのも億劫で、会社について自分の隣のその上司がいると、身体が緊張してうまく頭が回らない。身体が強張る。言葉がうまく出てこない。

普段の生活でもネガティブな発言が増える。
自分が何もできない人間であるという錯覚に陥り、何をするにも自信が無い状態が続いた。

会社全体のフォローも今思うと不十分に感じた。
営業部を統括する部長は、私とその上司の関係性には無関心。
周りも叱責を受ける時には何も言わない。

ところが、その上司がいない時には、
「大変だね、そこまで付き合えるのはすごいよ」
「〇〇さんはよくやってるよ。ここまで続いているのは〇〇さんが初めてかも。」
「あの言い方は無いよね。完全に度を超えてますね」
など、私を擁護し、上司を責めるフォローがある。

今思えば、それらはなんの解決にもならず、
周りは助けてくれないのだな、と不安な気持ちに満ちていた。

会社の社長から直接何度も話し合いがあるが、抜本的な解決はならず、
むしろ私の行動を少し変えるのはどうか、というアドバイス。

辞める2ヶ月前に上司が交代したが、その後も私に対する厳しい叱責や冷たい目、指導は続いた。

我慢が爆発してしまうあるきっかけが起きた。

営業車を運転中、その車をコインパーキングに駐車しようとしていた。
同乗者から、携帯を向けられ、「〇〇(元上司)さんから電話鳴ってますよ」と言われ、駐車中で集中したいはずの私は、反射的にその電話をとってしまった。

恐怖に満ちた声の電話だった。
「今話せますか?」
私は、「大丈夫です」と答えてしまった。駐車中にも関わらず。

「〇〇という器具の話ですが、なぜ少し形状が違うのでしょう。これでは使いにくいのですが」
共有して使っている器具のことについて叱責があった。しかし、この器具は私は元の状態に戻しており、落ち度に気づかない。
「なぜ、この状態が良いと思ったのですか?意図はありますか?どの状態が望ましいと思いますか?」

その時、ごつん、と音がした。
リアのバンパーが柵に当たってしまったのだ。

「すいません、柵に当たってしまいました。」
「はぁ?何やってんだよ。さっき大丈夫って言ってたじゃねぇかよ。」
「すいません、一旦切ります。」

事故を起こしてしまった私は、パニック状態。
また電話がかかってきた。

事故を起こした私に対する叱責の連絡だった。
もうやめてくれ。
過呼吸状態になっていた。

この時点で、私は正常ではなかった。
その後の処理もまずく、会社に帰ると業務担当・コンプラ担当が鬼の形相で捲し立てた。
「電話しながら駐車するなんで、人殺しになるところじゃないか」と。

元上司は知らんぷり。
一通りの叱責が終わった後、近寄り話しかけられた。

「私、言いましたよね。大丈夫か確認しましたよね。あなたの責任ですよね。」

この出来事は金曜日に起こしたが、土日は事故対応を行い、月曜日を迎えた私は、もう会社には行けない身体になっていた。
何もかも、誰にも、どんな仕事もできない状態。
涙が出て、まさに絶望の淵に立たされていた。

今後、この会社で頑張り続けるイメージが湧かず、恐怖が脳内を充満させていた。

会社をしばらく休むことになった。
心配する声はあったが、当時、現場で助けてくれなかった人たちの無責任なな明るい声が届いた。
「デスクにお菓子置いたのできてください」
「また日本酒飲みにいきましょう」
「〇〇さん元気無さそうだったもんね。元気出して。」

病院にかかり、『抑うつ病』の診断が下り、傷病休暇をとることになった。

原因はどうあれ、この状態で出向させておくわけにもいかず、出向解除となった。

銀行からもヒアリングを受けたが、具体的なところまでは踏み込まれずだった。

出向戻りの部署についても示達があったが、私が最も戻りたくないとリクエストした部署だった。

銀行でやりたいことが無く、居場所が無いと感じた私は、辞表の作成に取り掛かっていた。

出向戻りで担当顧客がいない私は、特に引き継ぎ事項は無く、
銀行を辞めるまでは「とんとん拍子」だった。

やっと銀行を辞める、11年と2ヶ月目の出来事だった。


写真:魚金(池袋)の「青海苔豆腐」

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