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市民のためのスカイウォーク Skywalk for Citizen #4

前回の続きです。

T 今日(2021.5.23)は第4章 近世世界のはじまりを取り扱います。K先生の授業進捗的に第11章をやると少し早いかなと思ったので。

K 進路講習で古代からやり直しているから、どの時代の小ネタも募集しているよ。

Y 近世という言葉は好きですよ。

T アジア、インド、ヨーロッパ、幅広で中世の話が出来るかな。

K 「イスファハーンは世界の半分」は、阪大文学部(はんぶん)志望者のスローガンだった。

Y このへんって高校生で二年の冬か三年の春にやった覚えがあるけど、いまはいつやっている?

K 高二の終わりでするようにした。急いでおいて良かった。

T Yが世界史を蔑ろにしていた一年間において取り扱われていた範囲か。

Y 理系として監禁されていた時代の話。

K わたしらが高校生のときもそうやったっけ。どこまでやったかな、二年生で。

Y まず聞きたいことが、一番デカいテーマとしてあるんですが、「近世」の定義ってそもそも何だろうというところから入っていきたい。国によって違うイメージがあって、世界史を大枠で捉えたら、古代、中世、近代とあるけれど、近世だけは国によって分かれる。ぼくがやっていたドイツ史で言うと、近世は15世紀の一番終わり、マクシミリアン帝の頃からウェストファリアまでの間。ただ、捉え方によっては、イギリスはウェストファリアとはほぼ関係なく、どのタイミングから近世が始まるのかな、というのはあるし、近世は国によって変わるというのがぼくの考え方なのですが、世界史の授業ではどのような時代区分で捉えているのかをまず聞きたい。

K 近世な。

Y 高校生の授業で、そんな時代区分あった?

K 自分たちが学んだときはどうだったかな。いつからこの時代区分があったのかは分からないけれど、いつからかあった。大学だったのか、卒業してからだったのか。

T 近世はあったんじゃないの? 小学校のときの歴史年表で、中世が青で、近世が緑で、近代がオレンジだったよ。それは日本史の年表だったけど、だいたい安土桃山時代から江戸幕府の始まりが近世のスタートで、開国からが近代が始まるという。日本はそれでなんとなく分かりやすい気がするけど、世界史の場合はどうですかね、宗教改革や大航海時代が近世のスタートで、産業革命からが近代って感じかな。

K そうやな、ルネサンス、宗教改革、大航海時代がセットで近世の始まりという感じで教科書はなっているけど、国別で言われるとちょっと難しい。

T 確かにな。国によって段階が違うから。ヨーロッパで「近世が始まった」というとき、近世の定義って何だろうか。このテキストで言われている「近世世界」とは、単に時代がそこに到達したということなのか、なんとなく王朝の話をしているので、元やモンゴルの大帝国の時代が終わって、地域ごとのすこし小さな帝国が成立したのが、国家区分のレベルで言うなら「近世」なのかな。

K じゃあ中国史なら明、清なのかな

T うん。明、清が近世だと思うけど。元までが中世で。ただ明も清もけっこう長い時代だけど。

Y そのイメージがある。

K 近世って何か教科書に書いてあったかな。しっくりくる説明があるといいけど。

T 何をもって近世というのは別にないんじゃないの。単にそのくらいの時代をという。いや、あるんだったら聞いてみたいですが。

Y 最近の教科書には実は載っているんじゃないかと思って聞いてみたんですが。

K ちょっと期待に応えられず。何か書いてあった気もするけれど。15~16世紀を近世にするんだったら、海による世界の一体化みたいな言い方になるかな。

T なるほど、ペストを乗り越えて、みたいな。

K 大航海時代が始まったのもそうだし、鄭和の大航海も、それらがあったのはムスリムの海のネットワークもあったはずだから、移動やグローバル化の舞台が、陸だけではなく海に広がったのが近世とも言えるのかな。また出てきたら報告します。

Y では、それはまあ、言葉狩りみたいなものなので。

K いや、気持ちは分かるよ。近世、中世と近代の間のオマケみたいな捉え方から、むしろ近世の方が凄いぞみたいになってきているんやな、きっと。教科書は一応そのあたりから第二部が始まっている。古代、中世の次のステップです、としたい。工業化の準備をした時代というか。

T 海による世界の一体化ね。

Y 教科書でもそういう分け方をされているのね。

K この教科書は桃木さんたちが書いているから。市民のための世界史を教科書にしたのが、これ。

◆軍事費予防としての朝貢貿易

Y p96に、「日本が朝貢に対して否定的」という記載があったと思うけれど。コラムの部分。

T 「朝貢そのものへの拒否感が強かった日本はやや特殊であった」というところか。

Y そうそう。「日本が朝貢という形を初めてとった」と教科書的に記載されるのは足利義満の前後という認識で良いですか。その前の日宋貿易や遣唐使は朝貢というスタイルではなかった。

K いや、でも卑弥呼は漢委奴国王に冊封されているよな。

Y 冊封されているよね。親魏倭王に。

K その間はどないなってたんやろう。

Y 突然空白があいて。

K 妹子が「対等や」とか言ったあたりからおかしくなったんちゃう。随の煬帝に言いにいったやんな。

T そうそう、だから古代、上代において、中国との貿易は、日本の主観としては対等だったと。ただ、中国の主観としては朝貢だった。「朝貢に対する拒否感」というのは、中国が押し付けてくる秩序に対して、日本は認識の上で拒否感を示していたということを指しているのかな。P99の「室町幕府にも朝廷にも明への朝貢を嫌う勢力は多かった」という、これは具体的に言うと。

K 誰なん。

T 『大明国へ、参りまする』岩井三四二という小説があるんですが。

K 何でも出てくるな。それはどういう話?

T 足利義満の命により、遣明史の右筆という大役を当てられた下級役人の甚八郎が奮闘する話です。

Y 実在するの。

T モデルはいると思うけど。遣明史はけっこうごった煮で、どういう人たちが明に渡ったかが分かるんだけど、下級役人が実行部隊の官僚として行くし、商人が一緒に渡るというのはテキストに書いてあったよね。博多商人がひと山当てようとして同行する。現地で商売をして、ひと山当てて帰ってくる、という奴らも同乗していた。それから僧侶ですね。僧侶が中国に行って、修行して、箔を付けて日本に帰ってくる。今で言う官僚が留学するような。そうした勢力から資金を集めて、船を調達するのが甚八郎の最初のミッションだったけれど、それを妨害する勢力が、「神国日本」に価値を置く保守勢力なんですね。彼らが日明貿易の成立を妨害しようとする、それを敵役にして物語が進んでいく。

K その小説はわりとちゃんと時代背景を踏まえているねんな。

Y 「遣明史」という言い方が。

K そういう言葉自体は出てこないけど、まあ遣明史やな。

T 肥富(こいずみ)っていたやん。

K あれは僧? 商人?

T 博多商人。彼が日明貿易の渡りを付けにいった。

K なんか寺の名前が付いた船あったよな。あれは明の時代? 日本史は断片的な記憶しかない。

T 建長寺船、天竜寺船。あれは鎌倉時代だね。

K じゃあちょっと前か。そのころから私貿易はあった。

T だから幕府公認の貿易船が送られたということがエポックメイキングだったと。けど基本的に私貿易は続いていたということ。

K 世界史の教科書にコラムがあって。昔はなかったコラムかな。

T 博多―寧波航路ね。これはどういうことなんですか、簡単に言うと。

K これは簡単に言うと「民間貿易は常にあった」ということ。一言で言うと(笑)朝貢貿易ではない民間貿易は、王朝や幕府の都合に関わりなくあったということ。遣唐使が838年を最後に送られなくなったが、その後も交流は続いて、江南地方の海商の活動が活発になり、唐物、宋銭といった中国産品が日本にもたらされた。これが宋の時代、日宋貿易の話だから、遣唐使がなくなって朝貢貿易はなくなるけれど、私貿易が続いてまた朝貢貿易が復活するという感じなのかな。このへんを整理すると。

T 白紙(894)に戻す遣唐使やもんな。

K あれで朝貢貿易っぽい形での交易は途絶えた。それで日宋貿易や寺の船の派遣から、遣明史の派遣に至る。

Y 朝貢体制が義満のあたりからスタートしたとして、いつまで続くというのは日本史的には習うんですかね。

K もう王朝は清しかなくない?

Y 清は鎖国中の日本ともやりとりしている国の一つ。

T そうやね。そういう意味では官の貿易が日明貿易を起点として、今に至るまで続いているということなのかな。

K 鎖国中は清に朝貢していないな。江戸幕府は。

T あれは朝貢というスタイルじゃなかったのか。単なる私貿易。

K というか、四つの窓しかないやんな、幕府は。直接清と行っていない。

T 直接清と繋がってない・・・ことはないやん、出島と繋がっている。

Y 奉行ということは、幕府の貿易。

T だからやっぱり官貿易だね。四つの窓は最近よく言われるよね。松前藩を通じた北の貿易、薩摩藩を通じた琉球との貿易と、長崎を通じたオランダや清との貿易と、対馬を通じた朝鮮通信使。

K ホンマやな。出島と繋がってるのか。

T ただ、ラインとしては、朝貢というスタイルではない。

K オフィシャルにやっていない。

T オフィシャルというか、朝貢なのかどうかというと。

K 朝貢ではない。

T 日本の歴史の中で、特異に足利義満の時代の日明貿易だけが、朝貢というスタイルを取ったということか、改めて整理してみると。

K 朝貢していなくて、そんなにモノが入ってこないからその分琉球王朝が中継貿易で栄えたみたいな話があったから。

T それはコラムにあったね。

K テキストにもあった。でも出島ではやっているのか。やってないと思うくらい琉球王国頼りなのかと思っていた。

T p99の琉球のコラム、明の滅亡は1644年で、江戸幕府初期の鎖国の完成が1630年代だったから、ほぼ同時期。だから鎖国後の中国との貿易は、ほぼ「清との貿易」に等しい。明が海禁政策を取ったのに対して、清の初期の貿易政策はどういうものなんでしたっけ。

K 清の初期も海禁かな。

T 海禁を強めたのかな、むしろ緩和したのかなというイメージはあったけど、具体的にどうとは書いていないな。

Y ヌルハチ、ホンタイジ、康熙帝ぐらいかな。清の初期。

K でもバリバリの朝貢貿易やな、清も。マカートニーにあんな対応をする。

T マカートニーって誰だっけ。イギリス人。

Y 三跪九叩頭だ。

K そうそう。マカートニーが自由貿易を求めに来るけれど、それに三跪九叩頭の礼をしなければ対応しません、みたいな反応をして、炎上したみたいな話。

Y マカートニーと他にだれかもう一人いなかったっけ?

K アマーストのことかな。マカートニーは絵があるけれど、イギリス側をすごく馬鹿にした感じの絵になっている。だからめっちゃ朝貢推しなイメージだけど、いつからだろう。

T なるほど、明の海禁政策に近いような高圧的な貿易を継続したということか。琉球の繁栄は海禁政策の中で、官の貿易が限定的であったが故に、その隙間を縫う形で私貿易を中継して発展したものだった。逆に言うと、官の貿易が十分に制限なく許容されるのであれば、中継貿易の利点はどんどん沈んでいくわけで。だとすると琉球の繁栄する/しないは海禁政策の強さ/弱さによって左右されるよね。

K だから海禁政策が強かったから繁栄したということ。

T それがどのくらいの時代まで継続したのかなと思ったけれど、清朝でも相変わらず規制が強いので、琉球の繁栄は揺るぐことがなかった、という感じかな。

K そうやと思う。けっこう日本史との絡みが多いので、おふたりに教えて欲しかった。

T この章は、かなり明朝にスポットを当てている感じがある。

K ルネサンスの扱いに笑ったんやけど。

Y ルネサンスひどいな。

T 十行ぐらいで終わり。

K ページ足りなかったのかと思うくらい西洋史がほぼないから。

Y 宗教改革も1ページだし。

K 明のことを書きたかったんやと思うわ。鄭和の方がルネサンスより長い。

T なので、明のインパクトとは何なのかを少し考えてみたいのですが、私も質問があって、p95の冒頭で「鄭和の航海のおかげで、東南アジア、インド洋の多くの国々が明に朝貢するようになった。」とある。インド洋の国々も朝貢体制になった。それまでは東アジアだけだったという理解なのか? 朝貢エリアの拡大みたいな図はあるんですか。

K 朝貢エリアの拡大は、これかな。何でもそれなりに図はあるんやけど。

T インド諸国ってのはどれになるの。この「南海諸国」ってやつ?

K 南海諸国は東南アジアじゃないの。どこなんやろ。インド洋って。

T インド洋の国々ってスリランカしか知らないんだけど。

K スリランカに直行していたんかな。

Y セイロン王を連れ帰ったと書いてあった。

T p94に鄭和の航海地図はあるけれど。

K マリンディの人たちは朝貢しているのか。キリンはどこまでの感じで。

T そうだとしたらこの文章は「アフリカ東岸も朝貢するようになった」と書いているはずだから、たぶんマリンディは朝貢していないと思うけれど。

K アラビアやアフリカから大量の朝貢品を持ち帰ったとは言っている。だからキリンは朝貢品なのか。

T ライオン、キリン、シマウマ、ラクダ、ダチョウは全部朝貢品なのか。

K でも向こうは本当に朝貢しているのかな。

T そこがさっきも日本の話もしたけれど、相手方の意図と中華の捉え方が異なっているということやな。

K そんな気がするねん。

T さらに、大阪大学のみなさんは殊更に明を誇大化させようとする勢力なので、明のシノセントリズムに乗っかって敢えて意図的に朝貢という言葉を使っている気もする。

Y 確かに。

K 「インド洋の多くの国々が明に朝貢」は、ちょっと盛り過ぎ。どこのことやろ。

T うん。盛り過ぎ。誇張している。

Y 「皇帝陛下によろしく」とお土産を持たせた程度の外交が全部「朝貢」と捉えられている

T なっている。そのシノセントリズムに阪大も乗っかっている。

K ここはなんか、怪しい。

T うん。怪しい。

Y さっき見せていただいた朝貢の拡大の図で「土木の変」って書いてあって、未だに忘れない語呂合わせがある。「オイラト石敷く(1449)正当な土木工事せえへん、えぇせん、はーん」という。

K 「オイラト石敷く土木」までは覚えている。

Y 「正当な」を入れないと「正統帝」が入らない。

K 完璧やなそれ。授業で言うわ。このへんから北虜南倭で朝貢をやっていられなくなっていく。

T 返礼は、朝貢品よりも高い水準にあった。明からすると国富の流出が生じていた。あるいはP97の六行目に「明が冊封していた王朝の断絶を理由に永楽帝がベトナムに侵攻したように、中国の干渉を受けることがあった」とある。これっていまアメリカがやっているような世界の警察めいた動きじゃないですか。自分たちの敷いた秩序が揺らがされたならば、冊封エリアの国々の秩序までをも明が責任をもった。それはすごく国富が充実していたからこそ成立する政策だけれど、その国富の源泉は何だったんですか。

K 明の産業はそんなん、絹と焼き物とかちゃうん。

T な。そのイメージしかないし、農業は国土が広かったから生産力はあっただろうけど。

K 商業が発展しだした、元から発展しているか。

T もともと発展していた商業が、海禁政策によって国庫に入るようになったのは大きいかなとは思った。

K なるほど。あと明が何で返礼品を頑張るかについては、朝貢品への返礼はお金がかかるけれど、いつ戦争が起こって大量の軍事費がかかるか分からない状態でいるよりは、定期的に朝貢と返礼をする方が財政にとってよかったというのもあった。

T それは明にとって? 冊封国家にとって?

K どちらかというと明にとってやな。遊牧民を念頭においているだろうけど、何度も侵攻してこられて、いつ戦費がかかるか分からない状態より、朝貢と返礼で、返礼をいっぱいあげておいた方が安上がりになる。

T 朝貢に対する返礼の考え方はよく分かりました。ただ、世界の警察はやり過ぎな気はしたけれど。自分たちの王朝を・・・、でも今の話でこれも整合的に理解できるのか。自分たちに服属して、返礼品の多少多めの見返りを与えるだけで大人しくしていてくれる王朝を存続させることに、明としても多少のコストをかける意味があった。

K うん。予防的にお金を使っていたんじゃないかな。このときモンゴルはやっぱり強いから。

T だとすると、後継国家が朝貢体制に組み入れられている限りにおいてはこういった干渉を受けることはなかったと。ベトナムでは、後継国家が朝貢体制からの離脱を企図したが故に干渉を受けたと言うことなのかな。

Y 「冊封していた王朝の断絶」ってのはそうだね。

T 離脱を企図すると「ちゃんと入れ」と言ってくるけれど、離脱せず、引き続き冊封システムに入るのであれば、王朝の性質が変わろうと差し支えはないと。そういうことやね。

K うん。でもそれで日本は何で攻めてこられなかったのか。足利義満のあとは朝貢していたのかな。

T していたと思うよ。だから攻められなかった。江戸幕府になってもその体制は継続したと。そういえば家康、朱印船貿易とかやってたよね。

K 朱印船貿易は中国じゃなくて東南アジアじゃない? 山田長政イメージがある。

T そうかシャムか。

K あれは朝貢じゃなくて私貿易めいてるし。あれが可能だったのは明と清の過渡期だったからかな。明が強かったらそんなことしたら怒られるそうな気がする。

T それは、冊封国家同士の貿易はやっていたんじゃないの。

K それはいいのか。

Y 対等な立場で。

K 冊封されている国同士の付き合いは自由にして良いのか。

T 全てに目を配るよりか、明としては軍事費の節約のために朝貢システムをとったのだから、ただ、そう考えると冊封国家同士が連携するのは軍事的には脅威ではある。

K そこは許されていた。

T そこはコストとリターンというか、全てに目を配るコストとの比較で、大目に見て良いと判断したのかも知れない。

Y 中国は澶淵の盟の頃からお金で解決することばかり考えていたから。

T 澶淵の盟は誰だったっけ。完顔阿骨打だっけ。いや、彼は女真か。遼は誰だっけ。

Y 耶律阿保機。漢字ではいま絶対書けない(笑)

T そうだそうだ。

K 耶律阿保機の漢字は、一個一個は難しくないけどな。宋を兄、契丹を弟とする盟約ですね。

T 慶暦の和約が西夏の李元昊で。

Y 金が、紹興の和議。

T それらに関しても、基本的に宋はお金で解決しようとしていた。

K このときはホントにそうやで。宋は弱いからお金で解決する。

T 明も見かけ上権威主義で強い国家のようにしてはいるけれど、お金で解決しようとする性質は変わっていないということだね。

Y p93で鄭和の遠征の意義について、「敵の情報収集が必要だった」とあって、敵とは?と引っかかりを覚えた。

K 誰と戦おうとしていたのか。

Y 明にとっての仮想敵国が居たのか。

T これはむしろ、「敵」を明確化するフェーズだったんじゃないの。

Y ああ、どこに脅威があるか。

K イスラム国家がどんな様子か探るみたいな。

T そのレベルかなと思うけど、仮想敵国はこの時代は、インドはどうなっているんでしたっけ。まだ奴隷王朝?

K 南部はヴィジャヤナガル。北に統一王朝はないかな。

T アラビア半島やイランはどうなっていたのか。

K ええと、いま15世紀? ティムール帝国やな。

Y ティムールが明に戦争しようとして、行く途中で病死して帰ってきたみたいな。

T ティムール、ヴィジャヤナガル、バフマニー朝、北部はトゥグルクからサイイドやな。アラビア半島はマジで何もないな。

K マムルーク朝が主要なところは押さえているけど、アラビア半島は真ん中あたりとっても仕方なくない? 砂漠だし。

T そうやな、何もない。

K メッカ、メディナさえ押さえておけば。

BOY(マリオのサボテンはあるで)

T そうやな、砂漠にもサボテンはあるな。

Y サンボやな。

BOY(レゴマリオにサンボいる。)

K この人ら詳しいで

Y マリオは20代やねんで。

K そうなん。おおきいな。

BOY(マリオは架空のひとやけど、なんさいかはしらんかった。ほんとやったらちがうかもしれんで。)

T 敵勢力は誰だったのかだけど、ティムールはそうだったかもしれないけど、鄭和のエリアを見た限りではそれほど強い王朝はなかったように思う。朝貢体制に対して服属しないような姿勢を見せたならば、これは強権的に、連れ帰ったりする。

K あとは東南アジアにイスラム商人が入ってきすぎるとイスラム化するから、それでイスラムという存在は気になっていたやろうな。儒教スタイルから脱却されると困る。

T 鄭和はムスリムだし。

K そのへんの状況を探らせるには良い人材だった。

◆道徳干渉と、権威主義と、国家のコスト

K p93で言うと「六諭を民衆に広げようとした」という課題のところが気にはなったけれど。

T ああそうね。その話、どういうふうに解釈されますか。

K 解釈も何も、君主が民衆に道徳を教える例って他に何があるのかなって、何もひらめかなかった。徳川吉宗がどうこうというのもあんまり知らんし。

T 吉宗が言っていたのは倹約令やね。要は華美なものを止めて、質素に暮らそうみたいな話だけど、ここで言われているのはやっぱり財政規律で、P92の5行目で「混乱した国家社会を立て直すために、商業貿易を重視し、文化宗教の多元性を認めた元朝と対照的に、農村と儒教を基盤として一枚岩の国家と経済を作ろうとした」とある。どういう原因で混乱したのか、ムスリム商人が入ってきすぎて国富が流出していたという問題意識があったのかも知れないけれど、とにかく財政規律の立て直しが明朝初期の急務だったのかなと思っていた。

K 財政。

BOY(サイゼリア?)

T サイゼじゃない、財政。あとは道徳を強要すると言うと、サッチャリズムはモラリズムで、そういう話が『イギリス1960年代 ビートルズからサッチャーへ』小関隆という本に書いてある。

K 買ったのね。

T 英国病のヒントになればと思って読んでいたけど。あるいは現代日本もそうですよね。『国家がなぜ家族に干渉するのか 法案・政策の背後にあるもの』本田由紀/伊藤公雄という本があって、自民党が憲法改正案で「家族は助け合わなければならない」という文言を入れ込もうとしているのを批判しているけれど、国家がなぜ家族に干渉するかというと、国家の財政規律のために、公助を掘り崩そうとしているからですよね。自助と共助の方へ社会保障をシフトさせようとしているから、家族を結べと干渉してくる。サッチャーもそうで、自由主義で経済的な保障をしないから、家族でちゃんと助け合えというふうに締め付けてくる。

K なるほど。全部、財政のためという説明でいけるんやな。

T 明と吉宗とサッチャーと現代日本は、全部財政のためかな。

K それは思いも寄らなかった。

T 一方でそれは、経済的には自由主義を標榜している。吉宗はどうか分からないけれど、サッチャーは新自由主義だし、現代日本は様々な公営企業を民営化して、公の担う役割を明にシフトしている。そうすると何が起こるかというと、簡単に言うと失業率が増加する。国有化は失業率の減少のためには最も適した政策で、失業率が減少すれば、国民が「何をするか分からない」状態にはない。ある程度雇用によって統制できるから。そうすると、家族に干渉する必要性は相対的に低下する。「自由にやってくれていいよ」と。だから経済の統制と家族の統制はトレードオフで、経済を統制すれば家族は統制しなくて良いし、経済を統制しなかったら家族を統制しないといけない、という図式になる。

K そんなふうには考えたことがなかった。家族や道徳は一番経済から遠そうに思っていたけれど、近いな。

T と、考えると、明朝が特徴的だと思うのは、経済も統制するし、家族も統制する、何しとんねんと。

K 現代の考え方で言うと、全く自由主義的ではないもんな。でも保護貿易的でもないよな。何やろ。

T この時代においてはもっと優先すべき価値があって、それは権威主義だった。

K 皇帝の権威。

T 皇帝の権威のために経済は統制する。でもそれだけでは自由主義は抑えるべくもなかった。だからそこにある程度の箍をはめるために家族を統制する。さっきの話と絡めるなら、明朝の財政基盤は弱かった気がするけれど、それでもちゃんと返礼品を送っているから、軍事の優先順位は高かった気はしたけれど。

K 中華体制に現代の考え方を当てはめるとそんな解釈になるのか。中華体制は別物と思っていたから、いましっくりきました。

T 返礼の話については少し長めにお話したいのですが、『オスマン帝国』は買った?

K まだ買ってない(笑)買うわ。

T 前回、スルタン=カリフという話が出ました。やっぱりこの本を読み直していると、スルタン=カリフという図式がけっこう早い段階で生じてきている。もちろん最初は、Yが認識しているとおり、カリフが宗教的な権威で、スルタンが世俗の権威でという役割分担はあったけれども、カリフは正統カリフ時代が終わって途絶える。その間はアッバース朝にカリフがいたということになっている。

Y バグダッドの一角に居た。

T アッバース朝自体は13世紀に滅ぶ。

Y 1258年。

T でも、カリフの一族はカイロに逃れていた。マムルーク朝に庇護されていたアッバース朝カリフ。

K そうか、そんなんあったっけ。

T オスマンのバヤジット1世は、1396年のニコポリスの戦いで西欧勢力に勝利して、1402年のアンカラの戦いでティムールに負ける。ニコポリスで勝ったときに、マムルーク朝に居たアッバース朝カリフが喜んで、バヤジットに「ローマのスルタン」という称号とともに下賜金を授けたと。そのときに「スルタン」がバヤジットに与えられた訳だけれど、「自らの剣を振るって覇を唱えたスルタン、バヤジットにとって、アッバース朝カリフによるお墨付きなど、些細な象徴以上のものではなかったであろう。」と、この段階でアッバース朝カリフの権威は低下していて、むしろオスマンの方が強化されてきているという、時代のシフトが生じている。それでマムルーク朝を滅ぼすのもオスマン。

Y 1517年。

T ムラト一世が滅ぼすけれど、そのときにアッバース朝カリフのカリフとしての権威が、ムラトに移転したと後に解釈されている。その時点でカリフ=スルタンが形式的に開始したと捉えることが出来る。ただそれはシャリーア的にはそんなことが言えるのかという様々な問題があったので、それを16世紀の長い年月をかけて民衆たちに馴染ませてきて、スルタン=カリフはそうやって16世紀中に、シャリーア上は解決を図った。

それで、18世紀にスルタン=カリフがオスマンによって標榜されて喧伝されていくようになった理由が、キュチュク・カイナルジャ条約という露土戦争の講和条約で、300年にわたってオスマンに臣従していた、ムスリムのクリミア=ハン国がロシアに割譲されてしまった。そのときに領土上はロシアに割譲されるけれども、スルタンはカリフとして宗教的な影響力はクリミア=ハン国に保持するという文言が組み入れられている。そこでスルタン=カリフであり、領土的には譲ったとしても、宗教的権威としては残存しているということがオスマンによって主張された。それが外交の手段としてのスルタン=カリフの創始だった。そこから1世紀後のパン=イスラム主義の原型が生じてきている、という流れで整理が出来るかなと思います。

K (拍手)

T で、オスマンが宗教的権威を保持することで外交戦略としたというのは、カピチュレーションもそうじゃないですか。フランスに対して許して、それを徐々にイギリスやオランダに拡大して、さらにキュチュク・カイナルジャ条約でロシアに対してもカピチュレーションを認めることになっていく。最初は宗教的権威のために行っていたカピチュレーションが、徐々に不平等条約にしかならなくなっていったけれど、明朝がやっていることも、国力を超えるような恩恵を与えることで、国力を削いでいるような動きになっていないかなと思って、ここはオスマンとの類似性だなと思いました。

K まずスルタン=カリフの話は分かりやすかった。やっとどの段階でどうだったのかが分かった。バヤジットのニコポリスとかムラトとかも一応教科書に出てくるけど、それとカリフとの関連性は出てこないから、すっきりした。宗教的権威を使って外交というのは、オスマンと中華体制を同じ枠で考えられるというのは、言われたらそうやなという感じやな。

T 権威主義は国力を削ぐんですよね。簡単に言うと。

K 「権威主義は国力を削ぐ」という世界史の公式やな。

T でも、様々な国家が権威主義を逃れられない。それは統治部門が楽したいとか贅沢な暮らしをしたいというよりは、そうじゃないと国がまとまらないということもあったんだろうなと思う。国をまとめるためのコストとしてもある程度経済的な不利益を甘受しないといけなかったという難しさがある。それは彼らが人間的に劣っているからそうだというよりは、国家を結ぶためのストーリーに必要なコストだったと。じゃあいまは国家を結ぶためにどういうコストを支払っているのかな。

K 現代日本は。

T 何によって繋がっているんですかね。日本は国土が島国だから分かりやすいけれど。

K しかもそれほど多民族国家じゃないし。

T 統合のためにどういうコストを支払っているのか。もしそれを支払っていないなら、支払わないといけないよねという話で、移民・外国人労働者の包摂であるとか、国家の機能は全て国民に対して直接的な経済利益として還元される再分配を行うだけではなくて、軍事費や統合というエネルギーそれ自体にコストを支払わなければならないと分かっていれば、もう少し人に優しくなれるよねという話。

Y そこに落ち着くのか(笑)

T それは世界史を学ぶ意味かなと思いましたけれど。

K 統合されているんかな。崩壊するんじゃない?

T そういう見方もあるよね。

K ふるさと納税の返礼とかも自分のことしか考えていないし、国のためにコストを支払おうってなっていない。払おうと思うよりどころが確かにないな。オリンピックが円満に行っていれば違ったかも知れないけれど、最悪な感じだから、何も統合の役に立っていない。

Y あれはひどいな。

K もはやドラマとかでしかまとまっていない。ガッキーが可愛いとか。

T 逃げ恥は普遍的になっちゃったよね。

K 「ガッキーおめでとう」とかそういうことではみんな意見が団結するけど。

T でもあれすらも結婚しないことを選んだ人たちからしたら暴力と言える。

K あれはプロパガンダかもしれないな。家族に干渉する。

T ぼくはそういう気はしたね、ちょっと。

K わたしは逃げ恥観ていないから分からないけれど。

T 逃げ恥がどんどん説教くさくなっているのは正月ドラマで思ったけれど、それがいよいよ彼らが結婚することによって、新しい抑圧のアイコンが始まった気はしたね。

K (笑)

T それはともかく、いま言ってくれたオリンピックによって統合するというのはそうかもね。オリンピックは統合のためにあって、オリンピック遂行のために数兆円の経費を投じているのは分かりやすいアナロジーかも知れないな。

K ホンマはそうしたかったんやろうな。失敗しているけど。

T そう。失敗しているけど。でも構造としてはそういうこと。統合のためにはコストが必要だと言うこと。

◆ティムール、オスマン、サファヴィーの衝突

K 明はまあこんなもんやろ。だいたい明やから。

T テキストの分量の分はちゃんと喋ったぞ。

K あとは知れてるな。

Y あとはコラム系だけやな。

T コラム系はどうですか、Yさん。

Y オスマン帝国とサファヴィー朝に関してのところで「16世紀のスレイマン一世の時代に全盛期を迎え、17世紀に至るまでヨーロッパの国際政治の参加国の一つとして大きな影響力を与えた」とある。これはまさにぼくの卒業論文のテーマでして。

T そうだね。

K それ語って欲しい。

Y まずは1453年のコンスタンティノープル陥落から、いよいよ一番東の要塞が崩れて、イスラムが西に流れてくる危機感が高まり、それがピークに達したのが第一次ウィーン包囲。そのときはフランソワ一世という西洋諸国の中でも敵に回ってくる側のヤツがおったけれども。

K ヤバいヤツが。

Y それをなんとか、冬を待つことでオスマン軍が撤退するから助かったと。ウィーン包囲は2回あって。

K うん。第一次と第二次。

Y その間で150年くらい空いていて、神聖ローマ帝国やオーストリアの中では「絶対にもう一回来る」と、近いうちに来るだろうと言うことで皇帝を中心に常備軍を作ったり、いざというときにお金を出すために神聖ローマ帝国内の諸侯に臨時徴税のトルコ税を認めたりして体制を整えて、1683年の第二次ウィーン包囲が来たときに、ようやく準備していた150年間の真価が発揮されて、ウィーンはまず陥とされず持久戦に持ち込んで、ポーランドの援軍が来て、追い返すと。これで今度はヨーロッパの方がオスマンよりも強くなったというのを認識させた上で、カルロヴィッツ条約を1699年に結んで、オスマン帝国が再びヨーロッパに来ないように、ハンガリーを取り上げた。これがオーストリア的には大きくて、オーストリア=ハンガリー二重帝国の礎ができる。

K カルロヴィッツはそう考えると大きいな。

Y カルロヴィッツ条約が17世紀に至るまでのヨーロッパの脅威を終わらせた。

T オスマンが始まって、牙を抜かれるまでが、この章に書いてあるということね。

Y こっからのオスマンはいじめられる側だから。露土戦争だったり。

K そうやな、気の毒な展開に。

T まだ本章の段階ではオスマンはいじめられない側の国として描かれている。

Y メフメト、セリム、スレイマンあたりは、非常に強い。

T セリムの時代にオスマン版タタールの軛を脱却したと書いてあるけれど、教科書では取り扱っているんですか。

Y モンゴル?

T ティムール朝やサファヴィー朝は基本的にモンゴル、遊牧勢力なのかな。

K サファヴィー朝は普通にイラン人じゃないのかな。

Y 宗教団体から発展した。

K ティムールはモンゴルの権威を利用している王朝。

T ティムールはモンゴルの権威を利用している。オスマンは後には宗教的権威が認められていくけれど、最初はオグズ族というトルコ人の正統性を主張してアナトリアの盟主としての正統性を確保したと書いてあったけど、それはよう分からんかった。

K それはよう分からんな。オスマン版タタールの軛は何?

T バヤジットはティムールにいったん負けたけれど、その後100年くらい経ってから、白羊朝、ティムールの後継王朝を倒して東方に追いやることができた。セリムの時代にようやくそれを成し遂げて遊牧民族の軛を脱して、オスマンとして統一的にスタートできた。

K はいはい、それでスレイマンの最強の時期を迎えるということか。じゃあそれまではけっこう混乱していた。

T 建国から200年くらいはずっと遊牧民族と戦い続けていた。

K 自身も遊牧民族やんな。トルコ系やったら。遊牧民族同士の戦い。

T その盟主を決める戦いだった。『ビザンツ帝国』中谷功治を最近読んだのですが。

Y その本は読んだぞ。

T この本は正直、それほど面白くなかった。

K そうなん笑

T 『オスマン帝国』の出来が良すぎて、遜色がある。

K この会話をするたびに『オスマン帝国』を買わないとと思うわ。

T ビザンツも千年くらいか。

K いつから始まるかによるな。

T ローマ帝国が分裂したときからだから、395年。

K だから1453年までなら、1100年くらい。

T 実際には1204年の第四回十字軍で滅びて、あとはラテン王国だから、810年くらいか。ビザンツの後期においては、様々な周辺勢力から圧力を受けていて、特にこの本ではブルガリア人がめっちゃ出てきて興味がでたけど、ブルガリア人の説明が全然ない。

K 教科書でも「スラブ人まとめ」みたいなページにコロッとおるくらいやな。

T でもビザンツの歴史を見ていると、本当にブルガリア人やノルマン人との戦いの歴史だという気がしたけれど、全然そのあたりが分からなかったので、この新書のクオリティは低いと断じた。

K そこを書いてくれということやな。

T ブルガリア人から圧力を受けて、様々な勢力から助けを受けながらようやくかろうじて命を繋いできたビザンツ帝国は、遊牧民族をうまく軍事力として取り入れていた時期は良かったけれども、それは結果的に遊牧民族たちが力をもつきっかけにもなった。だから小アジアのアナトリア地域は、ビザンツの求心力が低かったがゆえに遊牧民が群雄割拠する体制ができあがってしまった。だからアナトリアはそういうエリアだったけれども、それをようやくオスマンが強力なリーダーシップで束ねることが出来たというのが、このセリムの時代、オスマン版タタールの軛の脱却だったと、ビザンツの後期からオスマンの初期が、一応繋がりはした。この新書を読んで。

K 繋がりはした笑。いまの説明で繋がりはするな。ブルガリア人もトルコ系やな、もともとは。

T そうなんや。それがだんだんとスラブ人っぽくなっていく。

K もともとブルガール人。ハンガリーもそうだけど非スラブ系。ブルガリア人で相撲強い人居たよな。

T 琴欧洲関な。

K あの人はブルガリア人やな。なんでブルガリアやのに相撲なんやろと思ったけど、遊牧アジア系だったら納得

T なるほど、モンゴルとか。

K モンゴルとトルコだから違うかも知れないけど、白人純ヨーロッパ系の人ではないと思って。顔とかあんまり知らないけど。関係あるんかな、ルーツがアジア系というのは。

T 全然考えたことがなかったけど、言われてみるとそうやな。

K 相撲も文化としてちょっとあったりするのかな。

T モンゴル相撲ってのがあるもんね。Yはビザンツの本をいつ読んだ?

Y 大学のときに、一橋大学の大月康弘先生の集中講義を受けた。

T 『帝国と慈善―ビザンツ』大月康弘ってやつか。

Y それ。

T でもKが記憶していないということは、2012年度の集中講義だということ?

Y いや、2011年の冬かな。

T その時期だと、卒業直前かな。

K たぶん卒論に必死でそんなん受講してないな。

T 『オスマン帝国』にもメフメト二世の1453年の攻略戦の記録が書かれているけれど、やっぱりテオドシウスの大要塞と金角湾には苦戦したとあるね。

Y 海側からは突破できないから。

K 陸に船を転がしたやつやな。資料集に絵がある。

T 金角湾のメフメト二世戦艦陸越えの推定ルートも載っている。ヴォスポラス海峡から金角湾に向けて船を進めて、そこから攻撃した。

K テオドシウスの大要塞も写真がある。

Y コンスタンティノープル、形は鎌倉に近い。海と陸が逆だけど。

K 言いたいことは分かる。

T 逆鎌倉やな。

K 逆鎌倉(笑)

T 過去においてもイスラム勢力がコンスタンティノープルを攻撃したことがあった。教友アイユーブがそこで殉死したと。戦死だけど。コンスタンティノープルに彼の墓が「発見」されたことで、戦争中に鼓舞する発言することで、オスマンの機運が大いに高まって、ついに戦艦山越えを成し遂げたという。

K 煽った人はメフメト二世ではないの? 一般人?

T メフメトの幕僚、アクシェムセッティン。もともとオスマンも一枚岩じゃなくて、コンスタンティノープルとの交易によって利を得ている勢力もいたから、メフメト二世に対して「あんなところを攻めるのはバカです」みたいに諫言している勢力もいる。実はそれは自分の利益の為だけど。そういう一枚岩ではない中で攻撃をしている。そこに宗教的に、この攻撃の趣旨を説いた暑苦しい物語がある。

導師アクシェムセッティンはコンスタンティノープル攻略中、大城壁の北側に当たる金角湾付近で予言者ムハンマドの教友アイユーブの墓を「発見」した。アイユーブはイスラム勃興間もない7世紀のアラブ大征服の折り、コンスタンティノープル攻略を敢行し、殉教した人物である。教友アイユーブの墓の発見は、強固な反撃により苦境に陥り、厭戦気分すら漂っていたオスマン軍の士気を大いに高めた。なおこのアイユーブの墓標は、今ではトルコの人々にイスラム第四の聖地と見なされ、多くの参詣者が訪れ賑わいを見せている

K 暑苦しいな。それがアイユーブ?

T アイユーブ朝のアイユーブとはまた違って、イスラムによくある名前というだけ。ムハンマド時代にも既にコンスタンティノープル攻略は試みられていた。それが戦争の正当性を高めたということ。

K メフメト二世が初挑戦ではなかったのか。

Y コンスタンティノープルの意義としてはそういう。一千年間、城塞都市であったところが陥落するというインパクト。

T コンスタンティノープル自体がその時代においては一番大きな都市だった。コンスタンティノープルが世界の中心だった時代。ちょっとトルコに行ってみたくなりました。

「西欧でもなく東洋でもなく、古代末期に35万人を越える人口を擁する大都市に成長した。その後長い変転の期間を経てビザンツ世界を遥かに超えてその令名を馳せるまでになった。未だ形成途中のヨーロッパに万を越える人口を擁する都市は数える程度。当時隆盛を誇ったカイロやバグダッドなどイスラム圏の大都会といえどもコンスタンティノープルのような長い歴史は有していなかった。こうしてコンスタンティノープルは周辺世界から様々な理由で人々を引き寄せるメガロポリスとなった。」

K そうやな(笑)

T 今行ったらエルドアンに逮捕されるかもしれんけど(笑)

K Yがいま言ってくれた「ヨーロッパ国際政治の参加国の一つとしても大きな影響を与えた」というくだり、ウィーン会議を授業でちょっと触れているけど、神聖同盟にオスマン帝国が参加しなかったのが意外なことのように書かれていて、それは宗教が違うから当たり前なのだけど、逆にそれまでの国際会議にオスマン帝国はいつも参加していたのかどうか。そういう話はある? オスマン帝国がヨーロッパのこういう会議に実は参加していましたみたいな小ネタがあったら知りたい。

Y 小ネタというより、オスマン帝国はさっき述べたカルロヴィッツ条約が決まるまでは、ワラキア、ルーマニアとかハンガリーを領有していた国ではあるから、東欧の国際情勢を考えるに当たっては、必ず話し合いの場にいた可能性はあるけれど、有名な会議がその時代にあったというよりも、ウェストファリアには出ていないし。

K ウェストファリアには居ないねんな。

Y シュマルカルデンも・・・。

T シュマルカルデンって何だっけ。

Y カール五世が作った反ルターのカトリック同盟。

K シュマルカルデン戦争もあった。

Y ウェストファリアとウィーンが国際会議としては超有名だけど、それ以外でオスマン帝国が参加していた国際会議と言われると、そもそも国際会議自体が開かれていたのかどうか。

T ウィーン会議にはオスマンは出席したの?

K ウィーン会議には、神聖同盟には入っていなくて。

Y 神聖同盟はカトリックの同盟では?

K ギリシャ正教の方。ロシアのアレクサンドルが言ったから、それは入らないだろうという感じだけど、その説明のときに。

Y 神聖同盟は二種類あるのかな。

K 神聖同盟と四国同盟かな。神聖同盟はイスラムのオスマンと、自由主義を建前とするイギリスと、プロテスタントを嫌うローマ教皇以外の全てのヨーロッパが参加した同盟として書かれている。そもそもそもそもウィーン会議は「オスマン帝国を除く全ヨーロッパ諸国の代表がウィーンに集まった」になっている。だから参加していない。でも「オスマン帝国を除く全ヨーロッパ」という書きぶりからして、オスマン帝国は他の会議や国際政治にはバリバリヨーロッパの国として参加していたのかな。事例があったら知りたいなという。

T 17世紀までやな。18世紀以降は、第二次ウィーン包囲失敗以降はもう落ちぶれていくから、そこに至るまでの時代にどういった外交関係にあったのか。

K 国際政治の参加国の一つとしてというのは具体的に何かあったのかな。教科書レベルではなかったから。

Y さっき神聖同盟、間違った解釈をしたけど、第二次ウィーン包囲のときにカトリック中心で結成された同盟も「神聖同盟」という名前で。

K それはY的にはそっちの方を思い浮かべるわな。そっかそっか。

T 17世紀はちょっと分からんな。16世紀は・・・無いですね。

Y 極論を言うとスレイマン以降は。

K 戦ってはいるけれど。プレヴェザとかレパントで。戦っていると言うことは講和条約とかはあったかも知れないけど。

T そういうことやね、国際政治の参加国の一つというのは、武力衝突も含めてということか。

K そういうことか

T それ以降は単に切り取られるだけの客体だから「参加国」とは言えないという。

K そうか。戦いを指していると思っておけば良いか。

T 阪大の西欧史に対するテキトーさがここで露呈しております。

K あとはオスマン帝国とサファヴィー朝のチャルディランの戦いが、私たちの高校時代はそんなに学ばなかったけれど。

T 知らんな。

Y でも聞いたことあるよ

K 今は教科書でも大きく取り上げられていて、言われ方が「イスラムの長篠合戦」と。

T いち早く鉄砲を取り入れたオスマンが勝った。

K さっき言及されていたとおり、オスマンの初期はずっと遊牧民や他の王朝と戦い続けていたときに、それまでサファヴィーの方が強かったけれど、長篠合戦的に鉄砲を取り入れてオスマンが勝ったという話。

T 1514年。

K そう、だから長篠合戦よりも早い。なぜかこれが世界史Aの教科書にも載っていて。

T 日本史との連携を意識しているということなのかな。ここでサファヴィー朝は圧倒的敗北を受けて、約100年後のアッバース一世の改革、オスマン帝国のイエニチェリ軍団を模したグラーム軍団の創設までオスマンとの直接対決を避け続けることになる。これによってオスマン版タタールの軛が終わったって書いてあるんだけど、サファヴィー朝はやっぱりタタールなの。

K サファヴィー朝は結局イラン系やな。

Y 十二イマーム派だっけ。シーア派のよく分からない民間宗教みたいなやつ。

T サファヴィーは何者なのか。

K チャルディランの戦いではトルコ系遊牧民の騎兵部隊を率いていたと書いてあるけれど、それはイラン人がトルコ人を率いていたのか、サファヴィー自体がトルコなのか。イスマーイール一世は何者なのか。

T シーア派を信仰するサファヴィー教団を母体とあるから、やっぱりこれはイスラム勢力で、遊牧勢力ではないということね。だから今おっしゃったように、遊牧民族を傘下に入れて戦っていたという意味ではタタールの軛の一部と解釈されているということかな。

Y 傭兵体制みたいな感じで、トゥルクマールというペルシア一帯を遊牧していたトルコ系遊牧民の軍事力に頼っていたとある。

T だから彼らもあたかもタタールの軛の一部であったかのように解釈されている。

K いや、でもサファヴィー朝は、トルコ系遊牧民の間にサファヴィー教団によって過激な神秘思想が広まり、教主イスマーイール一世はその遊牧民の軍事力によってイランを平定した。トルコ系なのか。

T じゃあやっぱり遊牧民なんや。

K 遊牧民やわ。

T 拘った甲斐があったな。

K でも十二イマーム派とか、トルコ系の人たちがイラン・イスラム化したという理解かな。そういう王朝。

T だからチャガタイじゃなくて、チャダルヌークじゃなくて・・・

K チャルディランな。十二イマーム派の説明も教科書にあるけど、隠れていたイマームが救世主として現れるメシア思想。

Y そういう意味なの? 十二番目の使途のイマームということ?

T Yさん、高校の頃「何人くらい居るの?」「十人くらい」「十二イマームか」とか言って喜んでたのに、十二イマームの意味知らなかったの・・・(笑)

K 十二番目のイマームの再臨を信じている。

Y 知らなかった(笑)

K アリーとムハンマドの娘ファーティマとの間に生まれた子孫十一名のみを特別なイマームとみなす分派。だからどっかに居るねんでY、この十二番目のイマームが今も。

Y そんな過激な思想を持ちたくない。

K どっかに隠れていて、必要なときに再臨する予定と信じられている。

Y その思想を持っていてもイランでしか受け容れられない。

K せやな。イランは今もこれかもしれない。チャルディランをお知らせできて良かったです。

◆ついでに西ヨーロッパ

T 西ヨーロッパはどうですか。

Y やる気ある? っていう。

K せやなって感じやな、書いていることも。

T p102の封建制の危機。ペストの流行があって、その結果「地域によっては労働力としての農民の立場が強まり」とある。これはインパクトがあるの? これを読んだとき、現代社会だなと思ったけど。人口減少して労働力が少なくなることで労働側の交渉力が高まるというのは。

K そういう理解で良いし、そういうことを書いているネット記事が最近多い。ペストによって社会がどう変わったかということから、ポストコロナの社会を見出そうとする書かれぶりに、よくこのくだりが使われる。予備校の先生たちのブログにあるのは、この通りだけど、「人口が減った結果、農民の地位が向上した」とか「ペストの経験からルネサンスの思想が生まれた」とか、「感染症も悪いことばかりではなく新しい社会を切り開いていきますね」と言うときの一例としてこういう話が書かれる。だから現代もそうなるかもね。

T 労働者の立場が強まるというのは、ぼくらみんな労働者だから、強まって嬉しいな、という感想だけど、社会全体として労働者の立場が強まったことで、だからどうなるの?

K 中世の場合?

T 立場が強まって自立していったというのはどういうこと?

K 次の時代の準備をしたというか。

T 労働者が自立したら、ベンチャーを立ち上げるの?

Y 笑

K そうじゃなくて、領主が支配しているときは決められたものを決められたとおりにしか作れなかった、領主の土地を耕作させられる農奴的な感じだったのが、土地を与えられて、その土地で自由に農業をして、決められたものだけ納めてくださいという制度に変わっていく。そうすると農民は工夫します。商品作物を作って、それを売ったりして、領主にも納めるけれど、余剰のものが出来てくるからそれで商業が発展して、というのに結びついていく。

T それは分かりやすいな。現代の言葉で換言するなら、労働条件が向上することで余暇や可処分所得が増えるということのアナロジーとして捉えればいいのか。

K そういうこと。現代と結びつけるなら。

T p106のイギリス国教会。修道院解散令は財産没収が目的だったと言われるけれど、あんまり書いていないね。つまりカトリック教会が寄進、ピピンの寄進とかによって荘園を形成していき、国家の財政に服属しない土地が増えていくのが財政規律上よろしくないという意味合いを込めて、ヘンリ八世が修道院を解散させて、土地を取り上げて国庫に帰属させるという、優れて経済的な政策だったという評価があり得ると思うけれど、阪大テキトーやな。

K 教科書にはいまのような説明があった。

Y ヨーロッパはテキトーか。

T ヨーロッパの先生居ないの?

K いや、おる。イギリス史の先生がいる。

T 大陸史が居ないの?

K 大陸史もおるよな。

Y 江川先生は退官している、いや2014年ならまだいるか。

K 桃木さんにページを奪われたんやな。教科書には「プロテスタントは修道院の意義を否定したので、ヘンリ八世は修道院を解散させ、膨大な土地財産を没収した。財政を補うために売却されたこれらの土地を取得したのが、ジェントリと呼ばれた新興地主階層で、彼らを中心に新しい官僚組織が整備された」とある。このへんはジェントリとは何者だということで触れた記憶がある。

T ジェントリは世俗の実力者ってことですね。

K うん。宗教は関係ない。

T これはイギリスの話か。下で神聖ローマ帝国の話があって「世俗権力が特定の宗派の教会と協力しながら領域内の信仰と日常生活を規律化し、同質化していった」と、これはYの専門だなと思っていた。

Y 神聖ローマ帝国は各領邦によって宗教が分かれていた。フランスやイギリスと大きく違うのは、今のドイツの領域内に200を超える小さい集まりがあった。

T ルクセンブルク単位でね。

Y そうそう。都市レベルであって、そこがカトリックかプロテスタントかいずれかを決めていくスタイルだった。「領域内の信仰」はそれで、日常生活を規律化しというのは、ここでの世俗権力というのは皇帝じゃなくて選帝侯とか領主とか諸侯。

T 日常生活を規律化し同質化していったというのは、明の道徳政策とも似ている気はしたけれど。

K なるほど。生活を規律化する。

Y 六諭とも。

T 安定期に入るとそういうぶり返しが生じるというか、さっきは財政規律の話をして、混乱期において規律を強化しようという話をしたかれども、安定期においてもより生産性を高めるために道徳が導入されていくこともあったのか。日本でも戦後高度経済成長の時期、1960~70年代には生活改善を行政が推し進めた時期があって、奈良でもやまと時間とか言って約束の時間を守らない人がたくさんいたけれど、そうではなくちゃんと時計を見て暮らしましょうとか、そういう規律を行政が進めた。安定期により生産性を高めるために道徳が導入されることもある。明と対照的に、道徳は混乱期に規律を強化するためだけとは限らないということなのかな。

K いや、安定期なのかな。

T 安定していなかったのか、この時期の神聖ローマ帝国は。

Y この時期の神聖ローマ帝国は一番怖い時期。オスマン帝国が来るかも知れないという。

T だから規律が求められた。

K この時期っていつだ。

T 16世紀かな。

K じゃあそうやな、オスマン帝国がいつ来るか分からない恐怖。

T やっぱり混乱期に規律を要したので、規律を図っていった。具体的にどういうことをしたのかよく分からんけど。

K それは確かに何をしていたのか気になるな。

T 教科書には書いていない?

K 書いていないな。このへんの時代は他のことでいっぱいやな。神聖ローマ帝国の生活に迫るくだりはなかった。

Y ほとんど文書で残っていないやろ。

T それはあるかもね。ヨーロッパの女王の絵を見せてまでヨーロッパの同質性とか言う割には、それまでの異質性とその後の同質性の違いみたいなのが伝わってこない。

K そうやな、ヨーロッパを女王の姿になぞらえて、有機的一体性を。

T 有機的一体性って何やという。

Y ヨーロッパの女王は、ヨコに見るのね。

K 頭がだれ?

Y 頭はイベリア半島。

K ヒスがヒスパニアやん。その下は?

T パニア。ヒス・パニア

K あ、ヒス・パニアか。切れてるのね。ガリア、ゲルマニア、ヴァンダリア。

Y 一番下のあるのはシリア?

T アジア。

K ギリシア。

T タルタリア。

Y アジアの右にあるSCYTHIAはシリア?

T シチリア?

K ブルガリアとモスクワの近くの、何やこれ。

T モスコヴィアの下やもんな。

Y ベラルーシ、白ロシア?

K そのヨコにはタルタリア。韃靼(タルタル)もある。

T タタールね。シティアはこれチャイナじゃない? シナ。

K チャイナにしては手前過ぎるな(笑)

T ブルガリアとモスクワの間はコーカサスやね。カスピ海のあたり。

K カフカスがこれなん? 分からんな。調べたらでるかな。

Y 英語のWikipediaしか出てこない。

T スキティアか。スキタイじゃない?

K あ、スキタイかな。南ロシアやし。スキタイや。すっきりした。

T 辿り着きました。シじゃなくてスキだな、これは。

Y スキタイだわ。残り時間、間に合って良かった(笑)

【終】

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