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京城の電車ゆめ語り -京城軌道- 3

 日本統治下で賑わうソウル、いや京城の街。日本人が続々と入植してゆく、京城の近郊。朝鮮時代から内陸水運の河川港として、また渡し場として賑わっていた纛島のまちも、生活の近代化や物流の増加など京城近郊の拠点として重要度はますます高まっていったようです。

 そんな中、大きな転機となる事象がありました。

 1925年7月、京城近郊は大雨に見舞われます。4日降り続いた豪雨により漢江沿岸の集落や施設は大きな被害を受け、さてどうしようかと思う間もなく数日後には再度の豪雨となり大洪水が発生、漢江に近い地区は壊滅的な被害となります。纛島の辺りでは漢江の流路そのものが変わってしまうほどの被害で、対岸への渡し場や近郊農地として重要だった中洲の新川・蚕室(旧)は集落ごと消滅、南岸の松坡鎮(松坡里)も壊滅状態となり、京城と漢江南岸及び内陸を結ぶルートが途絶してしまいます。

1918年時点の漢江上流側の渡し場の位置・オレンジは砂州の徒歩部分で青が渡し舟区間
水害後の1937年の地形図・蚕室島周辺が村落消滅に至る甚大な被害に

 人も物資も流動が太くなりつつあった京城と纛島、そして南岸を結ぶ交通は早急に再整備する必要があり、少々の迂回となる広津ルートなどが活用されつつ、纛島は壊滅を免れ拠点性を失わず復興へと向かいます。そこで計画されたのが、京城軌道の元となる纛島軌道です。

 纛島軌道は、京城市街から延びる市内電車の終点であり朝朝鮮総督府鉄道と接続する往十里駅から纛島の市街を結ぶ軽便軌道(簡易な鉄道)として企画され、人や農作物の輸送だけでなく漢江で運ばれてくる木材や砂州で採れる川砂利などの輸送も目的とし、水害から立ち直る纛島の復興だけでなく京城の街の発展をも支えるものでした。
 敷設には少々困難もあったようですが1930年11月1日に京城郊外軌道と名を変えて無事開業、ちいさなガソリンカーや貨車が行き交う路線とはいえ京城の街に「都市近郊私鉄」が誕生したのです。

開業当時の車両が写る東大門駅の様子

 京城郊外軌道は、線路間隔は1,067mmと日本の一般的な鉄道と同じですが、軽便鉄道規格なので細いレールで小型の車両を用いるローカル線的なスタイルでした。1932年には往十里から東大門まで路線を延伸、京城の旧市街入口にあたる東大門の目の前に、立派なターミナルを構える私鉄となりました。
(社名は経営陣の交代などもあり京城軌道に改称)

東大門駅ビル
営業最末期の頃の東大門駅ホーム

 京城のまちの「まさに東の玄関」となる東大門と漢江の輸送拠点である纛島をダイレクトに結ぶこととなった京城軌道は、1935年から電車の運行を開始、郊外側でも広津方面への支線を順次敷設、大都市京城の東郊をカバーする近郊電車となってゆきます。

京城軌道路線図
新設なった橋梁で試運転を行う電車

 京城軌道は電化や路線延伸などを次々と実施し順調に成長してゆきますが、経営は順風満帆という訳ではなく建設費もあって赤字ベースだったようです。しかし当時の現地法律で各種助成があったため特に問題とはならず、またその法律では資本金や建設費の償還についても助成・優遇があったことから積極的な事業展開が出来たとのこと。京城軌道は人やモノの流れが蚕室・纛島経由から広津経由へと変わり、ここに架橋されるとなるや即座に支線を敷設、建設資材の輸送や架橋後の人・モノの輸送にも活躍したそうです。また纛島の岸辺に設けた遊園地は京城市民の身近な行楽地としてかなりの人気を博したようで、遊覧客車の運行などで集客も図っていたそうです。
(今も聖水洞の先の河川敷には纛島漢江遊園地があります)

 さて、京城軌道の状況ですが、都心の近隣にターミナルを構え、近郊の拠点を結び、路線上の遠方域に遊園地を置き集客の手段とする…、どこかで聞いたような話です。そう、まるで日本の都市近郊私鉄電車のスタイルそのままなのです。ソウル、いや京城に日本型の私鉄が生まれていたということに、心躍るのです…。京城軌道は後年さらに路線を伸ばして郊外都市に温泉遊園地を開発し都市間輸送と行楽開発をするという構想を打ち上げ、それこそまさに日本の都市近郊私鉄運営の基本型を作った阪急電鉄のような路線にしようとしていたのですから…

京城軌道の京城-利川間新線構想を報じる東亜日報紙面

 京城軌道、さていったいどんな鉄道だったのか。探っていきたいと思います。

(つづく)

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