7年ぶりの訪韓ドタバタ劇【17】京畿道大探検-イムジンの流れよ…
さて7年ぶりの訪韓だというのに色々と郊外…というか地方部にあたるエリアを徘徊する3泊3日(最終日はほぼ帰国行程のみなので)の行程。7年ぶりの訪韓なので見たいもの、経験したいことはいろいろあったのですが、最近になって見つけた場所がどうにも気になって、そういうタイミングで巡りあったものだと思い、やはり行っておこうと……
この望亭、たまたま韓国kakao map版ストビューで臨津江の様子を見ていて偶然に見つけたのですが、ここについての歴史を知ると、この景色がすごく意味のあるものに思えてきたのです。
朝鮮戦争で消えた街といえば江原道の鉄原が有名ですが(訪問記は下記に)、他にもあった、しかも京畿道のエリア内にというのが思わぬ衝撃で……
高浪浦口、なにせソウルからの距離はこんなもので、かなり近くまで通勤電車が走っているところ、なのです……
この案件を発見し調べてからまだ2か月、その場所の歴史だけでなく行き方を調べるうえで「知った」こともあり、それもあって敢えて東豆川からアクセスしようと思いローカルバスを3回乗り継ぐルートを組んでいました。まあこのひとつ目の乗り継ぎは予定通りいかなかったのですが…(苦笑)
1回目のバス乗り継ぎは結果としては後行程を調整すればリカバリー可能ということで、乗り継いだ路線バスで、2回目の乗り継ぎ地点へと向かいます。
緑のきれいな道ですが、脇には鉄条網が現れたりする場面も多く、軍事的な緊張地帯であることを往々にして匂わせる車窓。これが、京畿道北部の現状なのですね……
と、そんな感傷に耽ってばかりもいられない。スマホのバス運行状況サービスが気になって気になって…。なにせ次の乗り継ぎ地点でのバス接続は「両者のバスがほぼ同着」見込みで、このバスがこれ以上遅れるとそれ以降の乗り継ぎが不成立になってしまうギリギリの状況。ちゃんと走ってくれよ25-1よ……
頑張った25-1!わずかに先に乗り換えバス停に着いた!慌てて反対車線へ渡り、走ってくるバスに手を振って止め、無事に乗車。運転手がなんでこんなところで日本人が?的な怪訝な表情で何か話しかけてきましたが日本語訛りで「ケンチャナヨー」で通してしまった()
この乗り換えは本来なら小一時間の余裕があり、その間に見ておきたいものもあったのですが楊州での「やらかし」でその時間を食いつぶしてしまった結果こんな無茶な乗り継ぎに。無事に成功してよかった…なにせこのあとが…
住月里入口バス停で乗り換える83番が3時間に1本しかないレアなバスなので、ここの乗り継ぎを確実にしておかないとまずかったのです。そしてここでの乗継時間は20分ほどはあるようで、それなら…と092番バスを降りてそそくさと歩き…
「イムジン河」の歌で有名になった、南北分断の象徴のような川。北から流れ出て境界線の南側をうねりながら坡州へと流れ、漢江と合流して黄海につながる臨津江。穏やかなこの流れは半島東側の元山近くの山中から斜め横断するように南下し黄海へと流れることから物流の重要ルートにもなり、往年は大いに賑わった河川。
しかし物流大幹線は日本統治終了後の南北の暫定分離統治から朝鮮戦争を経て流域は荒れ、そして南北分断の象徴のようになってしまった。日本で「イムジン河」として歌われる歌詞は南北分断の悲哀を「川面を自由に飛び渡る鳥」に嘆き問いかけるもので、そして元々の北側でのプロパガンダソングでは鳥に託すのは「南の荒れた地で苦しむ市民に北の栄華を伝えておくれ」というもの。そしてキムヨンジャはそれを「分断で故郷の南へ帰れない無念を乗せて流れるのか臨津江よ」と再解釈で歌う…
二番の韓国語歌詞は、この内容だそうで。
「임진강 맑은 물은 흘러흘러내리고 물새들 자유로이 넘나들며 나르건만 내 고향 남쪽땅 가고파도 못가니 임진강 흐름아 원한 싣고 흐르느냐..…」
(臨津江の澄んだ水は流れ、水鳥たちは自由に行き来するのに私の故郷の南へは帰れない…臨津江の流れよ、この恨み(というか悲しみ)を抱いて流れるのか)
そんな色々と思惑が込められたこのイムジンの流れを、いちど自分の目で見たかったのです。その水を今、橋の上からひとり見ている……
たしかに南の地は荒れている。この流れの流域の多くは「分断の悲哀」を一身に受け、民間人立入規制エリアとされ街は消え河原にも入れない。そんな「荒れた河」はさらさらと水音をたて、今も、流れ続ける。
そんな水音が聞こえる橋にひとり佇んでいるのですが、この橋のたもとには「現実を思い知る」ものも、ありました。
この橋へ「普通に行ける」ようになったのは、どうやら2010年代後半になってから。それまでは民間人統制地域として越境許可を持った韓国人しか原則的には行けなかった場所。そのときの管理所が橋のたもとに残っています。そんな場所にいま、外国人がふらっと行ってこの先の橋に佇めることの、意味を噛みしめるひとときでした。
しかしこんな感慨に耽るのもほんの十分足らず。このあと乗る83番バスがリアルタイム接近情報を確認すると「あと数分で来る」ことになっており「え~20分あったんじゃないの?なんで一気に短縮されてんのよ」と慌ててバス停に走って向かいます…乗れないとマジでまずい3時間毎のバス!
走っていってたら丁度きました83番バス、とにかく手を振ってバスを停めます。こんなところから乗る客がいるとは思っていなかったようで全速走行から一気の停車、すんませんねぇ乗ってた人にはご迷惑様…と思ったけど乗客ゼロ()
このバスは日本統治終了後のアレコレでこの地が翻弄され、本来は長湍郡だったところが「分断後に南側所属とされた全域が民間人統制エリア」になったことから郡が廃止され漣川郡に編入されたエリアが民間人統制を緩和されたエリアに「連川郡の一般路線バス」を乗り入れさせるような形で設定されたもので、実需というより行政のアレコレが強く反映された路線。住月里口までは高規格道をかっ飛ばしてきて、臨津江を渡ると民間人統制が緩和された「あたらしく漣川郡になった」エリアを縫うように走るルートで…
この辺りは日本統治時代から広域行政体の変遷が激しく、百鶴面は元は麻田郡→積城郡とともに漣川郡に編入→日本統治終了後の暫定分割統治で漣川郡の大半はソ連管理地に→百鶴面を含むごく一部がアメリカ管理側にあり目まぐるしく行政区分が変遷→朝鮮戦争の休戦で南側管轄地が確定したので「(一般人立入規制だらけの)旧長湍郡エリアの代行拠点だけど行政区分としては漣川郡」という百鶴面が成立、ということで元々は漣川との縁が薄かったエリア(旧長湍郡は漣川より強い拠点性があった地区)なのに行政サービスで漣川とのつながりが出来たので、この路線が必要となった模様。この路線を、また「漣川郡による長湍郡の復興」のため延伸した、と…
バスはいよいよ、旧長湍郡の二大拠点といった市街地だった、高浪浦へ…
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?