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記憶

2020年を、覚えていますか。
2020年には、どんな記憶がありますか。

オリンピックが行われるはずだった年。
新型コロナウイルスが流行り出した年。

私はその年の秋、同じ中学の2人の後輩を亡くしました。

後輩と言ってもほとんど関わりはなく、名前も顔も覚えていません。

ただ、1人は私が幽霊部員として所属していた美術部の部員であり、私はこの出来事を、他人事として捉えることができませんでした。

2人が亡くなったことを伝えられた日に食べた果物のミックスゼリーの味を、私は忘れることができません。

2人はもう、このゼリーを食べることができないんだ。
おいしいものも、食べられない。
面白い映画も見られない。
新たに人と出会うこともできない。
この綺麗な秋の雲を見ることも、できない。

そう思うと、可哀想だと思う気持ちが出てきました。
ただ、それと同時に、羨ましいなという気持ちもありました。

2人はこの苦しい世界から、解放されることができたのだな、と。

私が感じているような生きる苦しみは、もう感じていないのだろうな、と。

夜に駆けるも、生きていたんだよなも、ノンフィクションも、その出来事の前に聴いた時と今では、印象が、感じることが、まるで違います。

2人を、彼女たちを苦しめていたものを、私は知ることができません。
いじめられていたのか、虐待を受けていたのか、噂は様々でしたが、事実は分かりません。

それでも確実なのは、2人が自らの意思で命を絶ったということ。

死ぬってどういうことなのでしょうか。
怖いことでしょうか。
寂しいことでしょうか。

前世なんて覚えてないから、私には死んだ記憶もありません。

死んだらどうなるのか、2人がどうなったのか、分かりません。

私は2人を亡くして、とても悲しかった。寂しかった。

同じ世界で、生きていたかった。

もし気づけていたら。
手を差し伸べることが出来れば。

私が幽霊部員じゃなければ。

ちゃんと部活に行って、その後輩と関わっていれば。

時を戻せたら。

たくさんたくさん考えました。

それでも、事実は、現実は、変わりませんでした。

私は、死と隣り合わせです。

でもそれは、人間である私達全員に言えることです。

明日、事故で死んでしまうかもしれない。
明日、余命宣告を受けるかもしれない。
明日、大切な人を亡くすかもしれない。
もしくは
明日、衝動的に自分を殺したくなるかもしれない。

衝動的に自分を殺したくなる病を患っている私には、自ら死ぬリスクの方が高いかもしれません。

今日が終わったら明日が来ると信じていること自体が、私達にとっての希望であり、特別なことだと思います。

この世は汚いです。
死んだ2人に対し、ネットの掲示板では、心無い言葉を見かけました。
読んでいて、心が苦しくなりました。

この世が汚いなら、あの世は綺麗なのでしょうか。

汚い世界から抜け出せた2人は、綺麗な世界に行けたのでしょうか。

死んだら綺麗な世界に行けるかもしれない。

もしそうなら、私は2人に、よかったね、と言わなければいけないのかもしれない。

それでも、私はあなたと生きていたかった。

この汚い世界であなたと、苦しいね、辛いね、って言いながら、もがいていたかった。

いつか会えた時には、迷惑かもしれないけど、思い出話を、お土産を、たくさん持っていきたいです。

そのときはよろしくね。

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