「かわいいと言われたかったのだっけ」

 ショートヘアにした。
 胸くらいまであったロングヘアをばっさり切って、耳のラインで若干マッシュっぽいシルエットになるように、短くセットしてパーマもかけてもらった。美容師さんはもう何年もお世話になっている方で、私の好みも髪質も性格もよくご存知なので、何も言わなくてもフェミニンになりすぎずボーイッシュにもなりすぎない中間みたいなところを綺麗に狙い撃ちしてくれた。二年ぶりのベリーショートだ。

 昨年あたりから、容姿についてとやかく言われるのが徹底的に嫌になっていて、それは褒め言葉であろうと何だろうと嫌なのだけど、だから髪を切ったりネイルを変えたりしたときに人から何か言われるたびに辟易していた。友達と繋がっているインスタグラムで、「容姿についていろいろ言われるのが本当に嫌だからやめて」と投稿したことすらある(その後にも多くの人がいろいろ言ってきた。わざわざ「褒め言葉でも嫌」と書いたのに!)。
 だから、月曜日、今回も髪をばっさり切ったことで絶対なにか言われるだろうな、完全にスルーされる世界だったらいいのにと思いながら家を出た。
 結果、案の定、会ったほとんどの人が私の髪に言及してきた。一人、私が近くの人と「髪を切っても何も言われないのが一番いい」と話していたのを聞いていたのか、全く何も触れないでいてくれた先輩もいたけれど、その人を除いて全員なにかしら言ってきた。
 これは私がベリショにしたことが私の周囲に浸透するまでしばらく続くだろう。皆、私の髪がどうなろうと放っておいてくれたらいいのに。外見のことでも褒め言葉なら告げていいみたいな認識もなくなればいいのに。

 同僚や後輩に「ショートヘアかわいい」と言われて、ふと、「あれ、私ってかわいいって言われたかったんだっけ」と考えた。この感覚は初めてだったから自分でも若干驚いた。
 私はシス女性で、プロナウンも長いことshe/herを表明していた。バイセクシュアルを名乗っているのも、シス女性として女性に惹かれることもあるという判断の上でだったし、これまではそこに疑問を感じたことなんてなかった。
 小学生の頃、私の意思に反して”罰”という名目で義父にバリカンで髪を剃られたことがあるけれど、あのときの苦痛たるや死にたくなったほどで、自分が大嫌いになって鏡が怖くなって、同級生の男の子に「男みたい」とからかわれて教室で泣いた記憶がある。それから髪を伸ばすことが許されるまでの間は、メンズの服を着て「男子」のように振る舞って、自認している性は女性なのに男性に見えるように生活して、自認性を自分で殺して「僕は男っぽくなりたい女なんだ」と無理矢理思って(当時は一人称すら変えていた)苦痛と屈辱に耐えていた。その頃の写真を見るとピースなんかしていない、親指と人差し指を伸ばして顎に当てる「男子」なポーズをしている。そんな子ども時代もある。
 だから今回、「私ってかわいいって言われたかったんだっけ」と思っていた自分自身に驚いた。じゃあかっこいいと言われたかったのだろうか? 一人、後輩が廊下で私を見つけるなり駆け寄ってきて「かっこいいです!」と言ってきたとき、私はなんだか救われた気がした。かっこいいと言ってくれたのはその子だけだったけれど、言って「くれた」と今も書いている時点でもう、私はかっこいいと言われたかったのではないか? 思えば、「かわいい」でも「かっこいい」でもない、ただ「いいね」と言ってくれた人の言葉が一番素直によかった。……。

 昔から他人の視線に晒されるのが苦手だった。自らの意思で見られにいく場ならまだしも、望まないタイミングで望まない目線に晒されるのが本当に嫌だ。
 だから人混みも苦手だ。最近、混雑した場所に行くにしても、キャップで他人の目をシャットアウトしたりサングラスで緩和させたりすると随分心が楽になると気付いたけれど、それでも全然好きにはなれない。
 大好きな作家の講演や、質疑応答の時間が設けられているトークイベントでも、対面式ではなくオンライン(かつこっちのカメラを切っていられる状況)だと非常に有り難い。

 自分の特性について悩んでカウンセリングに行ったとき、「容姿についていろいろ言われるのが嫌で」とだけ話した時点で、「自分の容姿を卑下するのはやめましょう。あなたは私がこれまで会った女性の中でもとても美しいですよ」と返されて、いやそうじゃなくて褒められるのが嫌なんだと伝えるのに時間がかかった。
 私は、私の顔や体が好きだから私が美しいことは知っている。でもそれは、私の中で私がそうである、という私の中だけで完結している絶対的なもので、他者と比較して「より美しい」とか「よりかわいい」みたいな相対的なものではない。相対的に評価されることが大の苦痛で大嫌いなのだ。
 ここの理解がなかなかされない。
 私は面と向かって「ブス」と言われたこともあるし、容姿でチヤホヤされたこともある。前者の経験を受けてダイエットやら美容やらいろいろやった結果、後者になったのだけど、どちらの時期も思考がルッキズムに洗脳されて他人からの評価に一喜一憂していた。今はどんな評価もただ嫌なだけだ。
 この苦手意識の根源を考えてみたことがあるけれど、おそらく、容姿や服装や振る舞いなどの外見から他人になにかを判断されたくない、という頑固なまでの反抗からきている意識だろうと思う。私を勝手に評価するな、私を勝手に判断するな、と。
 その「判断」には性別のいかんも含まれている。外見から性別を判断されたくない。外見から女だと思われたくない。

 それでこの「外見から女だと思われたくない」という気持ちの底にあるものも考えているけれど、こっちに関しては自分でもよく噛み砕けていない。ずっと自分が内包しているミソジニーからくるものかと思っていたけれど、外見から男だと判断されたとしても同様に嫌だ。ショートヘアを「かっこいい」と言われて救われた私は確かにいたけれど、だからといって男性を自認しているわけではない。じゃあかっこいい女性になるのを望んでいるのだろうか? 外見で「かっこいい女性だな」と思われたら満足か? いや、何も思われたくない。かわいいとかかっこいいとかの勝手なジャッジにも嫌気が差しているけれど、それ以上にずっと、他人に勝手に「女性だ」「男性だ」と決めつけられることが嫌だ。

 女でも男でもない性表現をしたい、というのが現在の私に一番合致しているように思う。性自認は女性の割合が多く占めているからノンバイナリーではないと思うけれど、「女性らしい」性表現には違和感を覚えるようになってきた。
 街を歩いていると、長い髪を揺らしてハイヒールを鳴らして、痩せていてバッチリメイクで、淡い色でボディラインが出る綺麗なファッションをして、小さなバッグを持った「女性に見える」人々とたくさんすれ違う。私は、そんなときに「女ならお前もこういう外見になれよ」と強制されているように感じてしまう。
 一時期は私もああいった格好をして、はっきり「女性」を表現していたけれど、今はただもうそこから逃げたい。やめたい。スカートやヒールを封印してみたら居心地が良すぎてもう戻れないし、「私はこうだったんだ」と感じた。昔やたらと丁寧な言葉遣いを一生懸命守って愛想良く微笑むようにしていたけれど、いわゆる汚い言葉も使うようにして怒りも愚痴も表現するようになってから、自分をぎゅうぎゅうに締めつけていたのを解き放している体感がある。あぐらは楽だし、大口で笑うのは楽しい。
 ベリーショートヘアは肩の上が軽くて飛ぶようだ。あらゆる抑圧から解放されたみたいで、もう手放せないかもしれない。

 これまで出生時に割り当てられた性や性自認、性的指向については多少勉強してきたけれど、性表現についてはあまり深く考えずに流してきたところがあった。まさか自分がそこに引っかかるとは想定していなかったけれど、ここについてもっと勉強して自分の内面で起きている変化の解像度を上げたいと思った。
 性表現は非常に社会的な要素だ。「こう表現したい」「こう見られたい」から起きる性。自分のこの変化とよく向き合えば、他人の視線への苦手意識も薄れたりするのだろうか。あわよくば。
 本音を言うと、さっき「ノンバイナリーではないと思う」と書きながらも、性自認のほうにも少し変化が起きているのを静かに感じているのだけど、これまで書いてきたような逃げるような理由でシス女性を拒否してノンバイナリーを選ぶみたいな、シスジェンダーの特権を振りかざすような性自認を持っていいのかもわからない。

 居心地のいい服、これこそが自分だと感じられるような振る舞い、しっくりくる言葉遣い、……、そういった私の第二の肉体に出会ってみたい。

 休日、時間を作って洋服を見に行った。たまに行くファッションショップだ。列になって引っかかっている服を見ながら、これまでとは別の観点を意識しながら歩いてみた。「あ、こういう感じのシャツなら垢抜けて見えていいかも」とか「あ、こういうパンツならダサくないかも」、「こんなトップスを着たら職場でもしっかりして見えるかも」のような、これまで服を選ぶ際に思っていたことを全て封じて、直感的にこれと思ったものをひたすら手に取っていった。
 結果、店を一周してから手元を見てみると、見事に黒一色だった。
 体のラインを出すものではなくだぼついた物が多くて、スカートは一枚もなかった。
 実家にいた頃、私の服を見て「もっと明るい色を着たほうがいいんじゃない」と言ってきた母の顔を思い出した。「おまえもあんな感じのキャリアウーマンって感じの服を着れば」「これ、私が痩せてた頃に着てたスカートだけどあげる」……。
 両手に抱えた黒い塊を見下ろして、私は固まった。自分で選んでいたと思い込んでいた今日までの洋服は、誰かの分身を身に纏って安心していただけの殻だったのかもしれなかった。母か。あるいは母の思う理想の娘か。
 メンズの服が並んでいる場所を歩いているとき、胸元の波が妙に穏やかになっているのに気が付いた。メンズモデルの大きなディスプレイの前で立ち止まり、彼を見上げると、世界に私と彼しかいなくなったみたいに静けさがやってきた。私は微笑んでいた。目の前の彼は、ゆるゆるの緑色のニットがよく似合う笑顔のかわいらしいモデルだった。いいな、それ。それ、私も着たい。
 自分が「女性らしい」服を着ればよく似合うことはわかっている。それでも私は、だぼついた黒だけを大量に買った。

 社会規範という垣根を越えようとする際に邪魔になってくるのは視線で、そこからくる自分のこの羞恥とか、恐怖とかで、隣には誰もいない。それでも飛び込んでみたいと思うのは、自分の本当の欲望を知ってみたいからだ。私の試行錯誤は続く。
 そして、飛び込んだ先で第二の肉体に出会えるか挑戦してみて、これこそがと思えたらめでたしめでたし。羽が生えたようなベリーショートヘアの効力と相まって、次は天まで行けるはず。

#創作大賞2024 #エッセイ部門

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