それもまた人生

 眼科へ行き歯医者へ行き、体の故障を修理しながら命をやっているなあと思う。舌禍免疫療法での花粉症の治療は毎朝やわい錠剤を飲むだけ、低容量ピルを寝る前に飲む習慣はすっかりベテランで飲み忘れることはもうない。

 体。
 これはただの容れ物だろうか? それとも私自身なのだろうか。ヤドカリのヤドの部分がこれに当たるのか、それともこれも含めた一体が私なのか。
 どちらかの見方を選べと言われたら私は感覚的に前者を取る。でもこれは私の所有物のはずなのに、私はこれの詳細を知らないし、これは私の言うことを大体聞かない。左半身のほうがなんとなく私という感じがして、愛着があり、精神が少し左側に寄っている感覚がある。その程度の理解しかない。
 いつか人類は科学や医療やテクノロジーの発展によって、意識だけの存在になるだろうか。「胸が痛い」という共感はその頃にもまだ健在だろうか。

 ブルーノマーズのライブが複数日程当たったので、一度目は友人と、二度目は夫と一緒に行ってきた。セトリは昨年とほぼ同じだった。2時間が体感5秒だった。
 彼のライブはKポップアイドルのそれとは当然スタイルが違い、例えばBTSがライブの最後にやる「みんなさよならー!」「来てくれてありがとー!」みたいに会場全体に手を振ってまわるお別れに向けた心の準備タイムみたいなものはなくて、アンコールの「Uptown Funk」で飛び跳ねて踊って叫んで歌って会場爆上がりの状態でブルーノがいつの間にかステージから走り去って終わり、という急に突き放されるスタイルなので、会場の明かりが点いてしばし放心状態になる。からの余韻。

ブルーノ・マーズのライブの時の写真(東京ドーム)

 有限に思いを馳せる。不完全な体を媒介にしつつやっている命はいつか尽きる。
 あるとき、修繕もごまかしもなにも通用しなくなって徐々に消えゆき、身の回りを整理しながらあの時代はああして幸せだった、あの時代ではもうちょっとこうすればよかった、なんて可愛い回顧で微笑んで、この容れ物を抱き締めながら眠りにつくだろう。
 あるいは、ブツッというなにかが物理的に切れたような音を立てたきりシンと動かなくなる機械のごとく、機能が永久に止まったことにさえ気付かないうちに眠っているかもしれない。
 人生は体感5秒だろうか?

―西さんは、“他者性”ということばを使われますけど、ご自身の経験と合わせると、どういうふうに他者性というものを考えているんですか。

少し不思議な言い方ですけど、どんな他者も、本人にとって自分は自分じゃないですか。だから、いろんな「自分」がいる、世界にはただたくさんの「自分」がいるということじゃないですか。それに気づけるのって、やっぱり自分をちゃんとケアしてからやと思うんですよね。自分が自分のことをきちんと認識して、「自分の体って私のもんや、誰にも奪わせない」っていう状態にならないと、周りに目が行かへんのちゃうかな。今はそういう時間さえも奪われている気がします。とにかく「自分の体は自分のものや。自分の人生は自分のものや」っていうことを、本当に本当にちゃんと認識して、初めて他者に目が行くようになるんじゃないかなって思います。だから、本当はすごくちっちゃいところから始めるべきですよね、きっとね。

―ちっちゃいところというのは。

やっぱり自分を見ることじゃないですか。半径1メートルどころじゃない、半径0の自分で、「ああ、もう自分の人生ってたった1回や」って。それって、イコール、「あ、この人の人生もたった1回で、この人の体もたった1つなんや」って思うこと。私に関しては、そうしてからやっとつながっていきますね。

自分を見つめ 踏み出す一歩を 作家・西加奈子さんロングインタビュー(https://www.nhk.or.jp/minplus/0121/topic051.html)

(2024/1/21)

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