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死ぬ八重歯

 自分の八重歯が結構好きだったけれど、歯科矯正を続けていたらいつの間にか隣と同じ背の高さをして並ぶようになった。去年もこんな形でしたよみたいな顔をして大人しく立っている。鏡に向かっていーっとしてみるとこれはこれでかわいい。変わりゆくものが変わり終えた後、そこにできた新しい風景を見て「ここって前は何があったっけ」と思うのはいつも自分自身だ。

 自分のことを考える時間が増えた。文学フリマが終わり、自分の創作物にもよく向き合うようになった。原稿を抱えているとそれの締切りを第一に据えるしかなく、それ中心の時間の使い方になるが、いざ終わってみると、残るのはむしろ達成感よりも虚無だ。それで書いたこれが一体何になったのだろう? 夢中で書いたはいいがこれが今後何になってゆくのだろう? 「やって意味があったのか」「やった時間を他のことで有効に使えたのではないか」などと考えて、自分の行動を損得で測ったり0か1かで見たりするのは私の悪い癖で、後先の利益とか換算価値とかから離れてグレーをもっと尊重していきたいけれども、そのためには思考の特訓が要るのでじんわりやっていくしかない。

 やりたいからやる、という単純なことをするのがだんだん難しくなっていく。働き始めた頃、親の許可なく自分の意思で動くことができる大人はなんて自由なんだと思っていたが、その自由を制限する要因がよもや自分自身の思考だったとは思うまい。読みかけの本が散らばっている書斎のカーペットを踏む足の裏が熱い。まだ五月なのに夏のように暑い。きっと五月が偶然暑いのではなく、もうこういうものに変化したのだろう、地球は。このままどんどん暑くなり、どんどん熱くなりやがて爆発するはずだ。惑星の死は美しい。死を意識する。寿命を気にする。ただ小説がやりたいと思って小説を書いたあとに、私は死を考える。死ぬまでに私の本が書店に並ぶ日はくるのだろうか? 死までの時間は有限なのに、意味のあることをやれているだろうか?

 そう思い巡らせて暗い気持ちのまま寝る夜もあるくせに、実際焦ってはいないのが自分でも愉快だと思う。覇気がない。叶わなかったらそれはそれでいいや、と思う訓練をすでにし終えている私がいる。昔から死に物狂いで努力をしたことがない。友達にも、パートナーにも、カウンセラーにも、占い師にも、MBTIにも「努力家だ」「頑張りすぎだ」と言われるけれど、私は時間をいっぱい使って努力をした記憶が全くない。努力の末にうまくいかなかったら、あるいは努力をしないで(当然)うまくいかなかったら、他と同じ背丈になった八重歯の尖り具合を忘れるように、自分の野心も最初からなかったみたいに振る舞える準備が整っている。もう何が欲しいのかもわからなくなった。なぜ作家になりたいのかもわからない。

 人生に後悔ばかりだ。もっと世界がわからなくなりたくて本を読む。終わったらああまた無駄なことをした、無駄な時間を使ってしまった、と死を考えるとわかっているくせに、小説が書きたくなる。矯正が完了したあとの直線の歯みたいに行儀良く並ぶ書店の本、そこには並ばない私の本。自分の文章に向き合っている時間の心の静けさだけが確かだ。八重歯の形を昔の写真で確認する。普通にかわいい。

「新潮」創刊120周年記念特大号、ロベルト・ボラーニョ「通話」、手帳が置いてある机の写真

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