『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦』(著・永井均)を読んだ

『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦』を読んだので、メモがてらの感想を書いておこうと思う。

・中学生の頃にいわゆる名著とされる哲学書をそれなりに読んだのだが、次第に哲学というものにあまり興味を持たなくなっていった過去がある。その理由としては、もちろん内容が難解で読めないものがあったからでもあるのだが、それよりも「(当時の自分にとって)ここに書かれているのは俺=草山公汰の話ではない」と思ってしまったからだ。フッサールの現象学なんかをとっても、強烈に「俺の脳内ではこんなこと起こっていない」といまだに思ってしまう(その上で「メタ的構造ではそうなのだ!」という姿勢は裏技すぎて卑怯だろとも思う。精神分析なんかで語られる「(抑圧された)本当のあなた」みたいな言葉も、最悪だと思っている)。哲学を読むうえではよくない姿勢なのかもしれないけど、俺はそういう人間だ(ビッグダディ)。

・そんな哲学に苦手意識を持っている人間がなぜこの本を読んだかというと、本書の「はじめに」の部分で「どんな哲学もそれぞれある種の人にしか意味を持たない」「結局のところ、自分にとって何が切実な問いか、ということに尽きる」と書かれていたからだ。ここに書かれている内容が"刺さら"なければ、それは誰も悪くないという免責事項になっていたわけだ。なので、以下の感想はすべて個人的な感想であると言っておく。

・『ハーバード白熱教室』でも話題になった「トロッコ問題」は、その「答えの出せなさ」によって人々の口を開かせたわけだが、本書はもっと広く、倫理というものの答えの出せなさの根源を語るような内容だったと思う。そしてここからはちょっと理系的な解釈になるが、その答えの出せなさの元凶は「命題論理による推論のような手続きで道徳を証明しようとする試み」であり、それが失敗する元凶は「公理系の不十分さ」であり、さらにその元凶は「"わたし"というものの特異さ」という風に書ける。

・少なくとも俺に刺さった箇所だけを抜き出せばこういうまとめになる。ここまで読んで何を言っているのか、それの何が面白いのかと思った人は、自分なりに本書を精読して読み替えるとおもしろいかもしれないし、同時に読まない方がいいかもしれない。読みやすい平易な文章だが、同時に倫理(学)の入門書ではない。面白いと読み解ける箇所を自分で探さないと本当に「答えが出ない」まま終了する。

・本書は「M先生」の講義と、それを聞いた生徒が人語を話すネコのアインジヒトと対話するという2つのパートを交互に繰り返す形で進行する。おそらく著者である永井均は、M先生でありアインジヒトとして語る。つまり異なる個別の「わたし」それぞれにおいて異なる倫理を語ることができ、(実際に第7章ではM先生とアインジヒトが直接会話する)、それは折り合いをつけることはできても世界全体に拡張することはできない。「倫理を語ろうとすればするほど、人間を非倫理的な存在へと導くことになる」という残酷な可能性を語るために、あえてネコという存在をクッションに置いているのだろう。

・結局のところ「みんなが納得して従うような理想の道徳」はないよね、という誰でも言えるような結論になってしまうのだが、それを導くために歴史的背景を踏まえたありとあらゆるパターンを語る、という点に面白さがある。そのうえで「わたし」が納得するものを選び取れればそれでいい。

・まあでも絶対的な善の規範なんて、西洋の幻想だったんでしょう。あと生成文法なんかも、うっすら幻想なんじゃないかと思ってるんだよな。話が逸れそうだからこのあたりで終わり。

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