「楽しい趣味」の条件と大喜利の優秀さ

ありがたいことに、大喜利のライブに呼ばれることが増えてきた。大喜利はそんなに得意じゃないと思っていたので、嬉しいやら恐縮やらという感じ。ただ与えられた機会は全力で全うするので、今後も呼んで頂ける場があれば是非お願いします。

先日も大喜る人たちというライブに出演させていただいた。アーカイブ6/11まで見れますのでよろしくお願いいたします。ちゃっかり宣伝。

アマチュアの大喜利プレイヤー(このあたり未だにしっくりくる呼称がない。大喜利ストとか呼ばれてるのも見る)の人も今はたくさんいて、全然芸人と遜色ないか、それ以上に面白い人もいる。最近になってこんにちパンクールなどで可視化されただけで以前からそういうコミュニティはあったのだろうし、自分が大阪にいるのでその熱を感じるだけなのかもしれないが、大喜利カフェ「ボケルバ」の開店なんかを見てると「趣味としての大喜利」もまた活性化しているように思う。誤解のないように言っておくと、アマチュア大喜利プレイヤーが全員「趣味」だと言っているのではない。あくまで趣味として大喜利を選ぶ人が増えている、という意味。

大喜利は「芸人である以上多少はできたほうがいいスキル」として向き合ってきたのだが、その距離感から「趣味としての大喜利」という視点で見直してみると、とても優秀な競技だなと思う。

おじさんや大学生の趣味

おじさんの趣味というと、釣り、麻雀、ゴルフ、パチンコ、などなど。最近は減ったように思うが骨董や盆栽もある。そしていくつかはいわゆる「大学生の趣味」とかぶる。おじさんはやらないけど大学生がハマりがちなもので言うとダーツとか。

こうした暇な男性がやりがちな趣味のうち、対人要素のあるものを考える。麻雀、ゴルフ、ダーツ。こうした趣味に共通するのは、一言で言えば「無惨な敗者が生まれにくい」競技であり、そうした競技は趣味として優秀である。そりゃそうだ。ボッコボコに叩きのめされて楽しい人なんかいない。

無惨な敗者が生まれにくいという構造の裏にある要因を、もう少し具体的に書くとこうなる。

①短期的には実力差が見えにくい

完全に実力差が反映される競技は、負け=実力不足となる。例えば将棋なんかは完全に実力差が出てしまうので、初心者がまぐれで有段者に勝つことはない。

その点、麻雀やゴルフは短期的に見れば初心者が中級者を負かすことがざらにある。もちろん長期的に見れば実力差は出るのだが、軽くコミットするだけなら勝ったり負けたりを楽しむだけで済む。

実力差が生まれにくいバッファーの代表的なものは「確率的なファクター」と「チーム戦」である。それはつまり負けたときの言い訳ができるということで、「運が悪かったから負けた」とか「チームが悪かった」と言える競技は、実力差のあるメンバーでも楽しむことができる。

逆に言うと、言い訳を自分に許さないようなストイックさを持ち始めると、これらの趣味はみるみるうちにいばらの道となる。運やチーム力で負けることもあるもので結果を残そうとするのだから、その分試行回数がはね上がることになる。

②実力の指標が複数存在する

これは①と少し似ている。かなり極端な例を出すが、ある野球選手の良いところを10個挙げるのと、あるアームレスリング選手の良いところを10個挙げるのとでは、後者のほうが難しいと思う。野球は「守備」「打撃」「走塁」などさまざまな局面があるのに対して、アームレスリングをこのぐらいの解像度で分解できる人は少ないと思われる(もちろんアームレスリングのプロはその戦いの中で色んな局面が視えているのは承知の上であるが)。

草野球を終えたおっさんが「あの人は守備が上手いからね〜」とか「今日の6回のホームラン、あれで流れ変わったな〜」とか言いながら酒を飲んでいる姿が容易に想像できるだろう。つまり各プレイヤーが様々なレーダーチャートを描ける競技は、それだけヒーローになれる場面が多く、自分を卑下せずに済む。

また権威が複数化されている場合もこの問題は解決する。例えば大会が多数開催されていたり、いろんな部門の賞が設けられていたりするといい。

③攻略可能であるかのように見える

これはおまけ。完全に運で左右されるようなものは趣味になりにくい。例えば宝くじを趣味として没頭している人はかなり少ない。対して麻雀やパチンコはかなり運の要素が強いが、技術や自分の選択によって勝てるように思われている。実際長期的に見ればそうなのだが、技術による短期的な結果への寄与率は低く、また実力通りに結果が収束する速度はかなり遅い。しかし実力差が出るように、少なくとも「見かけ上」見えていることが重要である。

もちろんガチガチに攻略可能であってもよく、それがうまく隠されていれば①の条件を満たしてくれる。

④「何もできなかった」がない

これもおまけ。例えば「早押しクイズの練習会に行ったら一問も答えられなかった」はあり得る。しかし「ダーツをやったが一度も的に当たらなかった」はほとんど起こり得ない。プレイヤーに要求される最低限の練度やルールにもよるが、「何もできなかった」を味わうと初心者は離れやすく、存続は競技そのもののルールや主催者の計らいに頼むことになる。

「界隈」が生まれるには

以上のような条件を満たすとき、その趣味や競技は広く愛され、また参入障壁も低くなる。

その上で、円満な界隈が成立するためにはもう一つ、「褒め合いを前提としたコミュニケーション」の存在が必要になる。

麻雀は誰かが負けるゼロサムゲームなので、同卓者がアガると不機嫌になったり悪態をついたりする人がいる。YouTubeの麻雀の動画はコメント欄が揉めていることが多い。対してゴルフなんかは、同伴している人のいいショットに対して悪態をつく人はほとんどいない。褒めあいを促進する構造や風潮は勝負の勝ち負けや巧拙を問わないところにあり、それこそがその趣味・競技のかけがえのない価値である。

おもにゲームの世界で、プレイヤー同士が罵りあう姿をたくさん見てきたが、そういう界隈はどんどん先鋭化して蛸壺と化し、縮小していった。お互いに褒め合っているような世界を「ヌルい」と揶揄するのは簡単だが、少なくとも新規参入者にとってどちらがいいのかは一目瞭然だと思う。逆にバンドマンやお笑い芸人は新規参入者とベテランが一緒になるので、この「居心地の良さ」が仇となっているケースも少なくないが、今回は趣味についての話なので、見なかったことにしちゃおう。

大喜利は全部満たしている

こう見ると、趣味としての大喜利はかなり多くの条件を満たしている。 

まずよっぽど絶望的なセンスをしていない限り回答は「数撃ちゃ当たる」ので、①短期的には実力差が見えにくいし、④何もできなかったということもない。手を上げればそれだけで参加できる。お題にバラエティをもたせることで「あのお題は〇〇さんが無双してた」というように②実力の指標が複数化されるし、お題はある程度類型化されているので③攻略可能であるように見える。

また一緒にやっているプレイヤーが舞台上で笑うということがそのまま「褒め合い」になる。つまり複数人による大喜利は、既にコミュニケーションを内蔵している。何も終わってから飲みに行って感想戦をしなくても、肯定が完了しているのである。かなりパフォーマンスが高い。

上記のような「おっさんの楽しい趣味」界隈が終焉、もしくは分断をむかえるときは2パターンある。これは単純で「金が絡む」か「序列が明確化される」のどちらか。

例えばプロリーグもレーティングも存在しないようなゲームでは、その辺の子どもとめちゃくちゃ強い大人が対戦することは容易である。ここに金や序列が発生し始めるとそうはいかなくなる。将棋という競技にはかつて「真剣師」というのが存在した。賭け将棋でメシを食っている人間のことで、彼らは道場などにたむろし賭けに乗ってくる人間を探していた。街の将棋自慢はいつでも彼らと接触することができたのである。その後将棋賭博の規制が厳しくなり、現在ではアマ棋士とプロ棋士の分断がかつてのように再融和することはないだろう。

高額な賞金の出る大喜利大会が盛んになり始めたり、大喜利の強さがひと目で分かるようなシステムができたりしたら、そのときに「芸人とアマチュアが入り混じってわいわい大喜利をやる」みたいな文化は死ぬのだと思う。その瞬間がいつ来るのか、もうすぐそこまで来ているのかは知らない。

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