感情に順序を埋め込む

順序と争い

芸人の世界には結構明確な序列があって、結局のところ「いくら稼いでいるか」であらかたの批判やヘイトを吹き飛ばすことができる。酒を飲みながら「あいつは面白くない」とくだを巻いたって、結局稼いでないのなら負け犬の遠吠えになる。「過去に賞レースで結果を残したが、今は稼いでいない人」の話をすると、たいてい芸人は苦い顔をする。やはりプロップスよりも収入が正義の世界なのだという感じがするし、しかしながら、そのほうが無用な争いがなくていいのかもしれないと思う。

スポーツやゲームにおいて、勝ち負けを判定する最もポピュラーな方法は点数で競うことである。それ以外はタイムや距離、高度など、何らかの数を比較して勝敗を決めるものがほとんどだ。ボディビルのように審査員が決める形式や、格闘技のようにどちらかがぶっ倒れたら負けみたいなものもあるが、結局何らかの(文字通り数学的な意味の)実数の組に順序関係を入れることで機械的に勝敗を決定するのが、一番手っ取り早くて分かりやすい。

以前書いた記事でも触れたが、多様な評価軸があって優劣がつきにくい場のほうが「負け犬」は生まれにくくなる。しかし裏を返せば、誰かの意見が「負け犬の遠吠え」として唾棄されることも少なくなるということでもあり、しばしば争いは増える。趣味の世界に身を置く人は、うっすらと心当たりがあるのではないだろうか。全員がいろんな正しさを振りかざすことができて、そこに審判はいない。そういうときにどうやって勝敗が決まるのかというと、我々がよく知っている通り、どちらかがぶっ倒れたら負けということにするしかない。実は、負け犬を生まないやさしい場所ほど、ひとたび争いが起きると大量の血が流れる。

感情を数にする

「オタク」や「ナード」という言葉と、「推し活」という言葉に感じる分断は、お金が占めるウェイトのように感じている。知っている知識の詳しさであったり、持っているグッズのレアさであったり、セリフをそらんじることで愛を表現するだけでオタクと名乗ってよいはずだった。それを愛の指標として、くだらない争いをしているのがオタクというイメージだった。

ソニー銀行のネットCMで、田中れいなが「推し活用の口座を作ろう」と言っている。いつからファンというものは金がかかるもの、お金をかけないと名乗れないものになってしまったんだろう。しかもそれを興行主が焚きつけるのに便利な「推し活」という言葉に包摂して、いったい愛はどこへ向かうのか。オタクの序列を消費金額と同型にしてしまった元凶は秋元康なのかもしれないが、それを言葉ごと取り込んで歓迎しているファンがいるのは、勝敗が明確であるほど秩序が生まれるからなのだろう。しかし、その秩序は愛の何を象徴し、何を象徴しないのか?バイロイト祝祭劇場よりも大きく豪華なオペラハウスを作ったら、ルートヴィヒ2世を抜いて「トップ・ワグネリアン」になるとでも?

「欲望は、他者の欲望である」とはラカンの言葉だが、天文学的な数の他者の欲望と容易につながりすぎる今、脳はショートしてしまっている。せいぜい数十匹の群れで暮らしていた猿のころから変わっていない脳が、こんなにたくさんの他者の欲望をコピーできるわけがなく、ペッパーミルのような音と白煙をあげて書き込めなくなったハードディスクと化している。エージェントや興行主に金の流れを分断されている以上、タニマチやパトロンにすらなれない我々は、愛を単純な外付け構造に仮託することでしか自覚できなくなっている。それ、推しを推すために金を推しているんじゃないのか。欲望が満たされた証明書を得るために欲望を満たしてるんじゃないのか。そんなふうに自己目的化した推し活は、他者の他者愛が無限に反射する炉となり、いずれ焼き尽くされる。

自分が芸人という、一般的には推される側の職業であることを棚に上げて言うようだが、この先に自己愛の未来はないぞ。グッズを持ってなくてもライブに行ったことがなくてもファンを名乗っていい。愛を全部お金に変換したら、資本主義のリングで戦わされることになる。TSUTAYAでレンタルしたことしかないけど俺はワグネリアンなんだ。文句があるか。

エネルギーの墓場

熱エネルギーはエネルギーの墓場と言われる。熱は温度差がある場所でしか仕事ができない。電気などと違って、そこから新たにエネルギーを取り出すことが難しく、つまりエネルギーを仕事に変換するプロセスにおいて、熱になってしまう場面は極力減らさなければいけない。

イスラエルの経済学者ウリ・ニーズィーが行った有名な実験がある。
(Gneezy, U. and A. Rustichini. 2000. "A Fine Is a Price.")
保育園で閉園時間を過ぎても迎えに来ない保護者の遅刻を減らすため、遅刻時間に応じて罰金を科した。すると罰金導入後の保育園は、何もしなかったグループに比べて逆に遅刻が増えた。もちろんこの罰金が法外に高ければ抑止力となっていたのかもしれないが、この結果がもつ経済学上の意味はそこではない。「遅刻をしない」というモラルの問題が「金を払えば遅刻してもよい」というサービスへと転化されたことが重要である。さらに面白いことに、罰金を撤廃してもそのグループの遅刻率はもとに戻らなかった。金銭へと変換された社会規範は、再び取り出すことができなくなってしまった。

缶のプルタブ、ベルマーク、ペットボトルキャップをPTAが集める活動は、実にバカバカしいものに見える。しかしこうした物質はバカバカしくも努力して集めたものに留まっているからこそ、逆にその集団の”善意”だけを取り出すことができる、ともいえる。大谷翔平のグローブも同じだ。人によって利き手も好きなスポーツも違うのだから、グローブではなくお金を各小学校に送るアイデアもありだろう。でも現物のグローブが届いたとき、たとえそれが大量生産の既製品であったとしても、そこに大谷翔平の意思を感じ取った子どもたちはいたはずだ。

金は感情の墓場だ。熱エネルギーのように、一度丸い金属や紙切れになってしまった価値から再び「感情」を取り出せない。擦り切れるほど聞いたキリンジのアルバムがある。これを売って手に入れたはした金を同じようには愛せない。なんかこう書くと、物質に変えておけという話みたいになっているな。そうじゃないんだ。あなたの手元に残った「成果」から、何が取り出せる?ちゃんと愛をもう一度取り出せるかい。ひょっとして整数のデータに変換されて、バブルソートの泡になってないか。


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