「服を買いに行く服がない」現象の急所

先日書店に入ると、正確なタイトルは覚えていないのだが「『サピエンス全史』をどう読めばいいか」みたいなタイトルの漫画が売っていた。ほー、そういう漫画も売っているのか……と素通りしそうになったのだが、よく考えるとどういう人を対象にしたマンガなのか分からなくなってくる。

例えば『源氏物語』を原典で読むためには、古典文法と時代背景を学ぶ必要がある。言語の壁や時代性、文化圏をまたぐような著作については、読み方に需要があるのは分かる。しかし『サピエンス全史』は2016年に発売され、全世界的に大ヒットした書籍である。正直読みたいのならば勝手に買って読めばいいし、読める。かなりの文量があるが、専門知識が必要というわけではない。

なので、『サピエンス全史』と「それを読むためのやさしい指南書」との関係について、こんなことを思ってしまう。

①サピエンス全史を通読できなかった人。
→指南書があったらスラスラ読めるとかいう次元ではないので、指南書を買う前に根性でサピエンス全史を読んだ方がいい。読書のスタミナの問題。
②サピエンス全史を読むための前提知識がないと思っている人。
→読む前から負けること考えるバカがどこにいるんだよ!(猪木)つまり早合点なのでとっととサピエンス全史を買って読んだ方がいい。
③サピエンス全史を読んでみたが、知識がないので読めなかった人。
→一般教養の範囲なので指南書を買う以前に普通に勉強したほうがいい。

あれ、指南書の出番なくないか?

サピエンス全史を読んでみて中断や挫折をした人がいたとする。その人がもし「自分に何が足りないから読めないのか」を正確に理解しているとしたら、その人はじきに読めるようになる。問題は「何が足りないから読めないのかは分からないが、読めるようになる魔法のような一冊があったらな~」みたいな認識の人間である。そういう人を狙ったビジネスを悪だという気はないのだが、一生同じような構造に金を払い続けるのだろうなと思う。

「服を買いに行く服がない」というネットのジョークがある。おしゃれをするために服屋に行きたいのだが、おしゃれな店に入るためのおしゃれな服がないという状況を指している。この問題にも同じような構造を見出すことができて、①おしゃれが分からないなら、急に分かるようになるものでもないのでとりあえず買ったらいいし、②おしゃれな服がないとおしゃれな店に入れないと思っているなら、自意識過剰なので勝手に店に入ったらいいし、③おしゃれをするために何が欠けているか分かっているなら、そんなやつは多分勝手におしゃれになっていく。そして取りこぼされて搾取されていくのは「個別事例(流行や特定の場面)にだけ対応できる場当たり的なファッションだけを消費させられる人」である。彼らはおしゃれになったと勘違いさせられ、おしゃれになる機会を逃し続けるし、また与えられない。

この「服を買いに行く服がない現象」はいろんなものに根深く浸潤している。がむしゃらに行動する、プライドを捨てて飛び込む、何が足りないのかを知る、が何かを得る最速の方法である。まあこれは頭では分かっていても、きょうも酒飲んで屁こいて寝てしまうのが俺を含めた人間のダメなところではある。ただ問題はそこではなくて、「面倒くさがりでプライドがあり自分に何が足りないのかよく分かっていない人間に対して場当たり的に事態が解決したかのように見せる一時的な麻薬」を売る商人がいることなのだ。服を買いに行く服がない現象の最も特筆すべき部分はそこにある。

いろんな仕事をAIがやってくれるのだから人間はやらなくてよい、みたいな珍説を耳にするのだが、「人工知能を理解するための知能がない」にしか聞こえない。彼らは場当たり的な偽のインテリジェンスを植え付けられて、人工知能よりもより「人工的な知能」のふるまいをするようになる。

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