物語に隠されたもの、問うてはならないもの

『ノーカントリー』という映画を見た。非常に人がたくさん死ぬ映画で非常に痛快であったが、難解なセリフや思わせぶりな画作りが多く、神経質な人なら脳内にハテナがたくさん浮かんで終わる映画だと思う。

監督や出演した役者のことを知りたくて調べていると、やはり「考察サイト」が出てくる。見てみると、やはり”賢い”人たちがいろんな考察をしていた。登場する非情な殺し屋・シガーはアメリカの象徴であり、シガーが交通事故にあうシーンは9.11を表しているのだとか。主人公のベル保安官が最後に見た夢は理不尽と正義のメタファーなのだとか。いろいろ読んだけど、まあどうでもいいなと思った。それが何のメタファーであるかなんて、答えを明らかにしたら「野暮」という気がしてしまう。

かつて永井均が著書の中で、哲学というものは「自分にとって何が切実な問いか」以外に意味を持たないのだと言っていた。これは、さらに広く創作物の「隠されたもの」に対しても言えると思う。それが何であるかを問うことは、本質的にそれを「自らに問いかけられたもの」ととらえていない人には必要がない。

「オカルト(occult)」という言葉はラテン語の「隠されたもの(occulta)」に由来する。例えば地球がフォトンベルトに突入して人間の魂がアセンションするというoccultは俺にとっては見かけ上たしかにoccultaであるが、しかしながら俺の肌触りとしては乾燥したクリシェであるから問う必要がない。だから『ノーカントリー』に描かれたものを紐解くのも、「ンンン~~これは紐解かれていないですぞ~~~!!!」と感じた人だけでやればいい。

よくコントを作家さんに見せたときのダメ出しで「登場人物の背景(動機)を詰めろ」というのがある。その人物はなぜこんな行動をしているのか。家族構成はどんな風で普段何をしているのか。それを考えろという。たしかにそういう部分をこだわることで奥行きが生まれるし、事実ネタの展開に行き詰ったときはそう考えることが多い。というか、物語をおもしろくする方法論としての基礎なのだとおもう。しかしその先にネタとしての着地点はあるのだろうか?と思うこともある。問わなくてもいい部分はお笑いにもあるはずだ。

ピクサーの映画は、主人公の渇望とその阻害、そしてそれを理不尽・非合理的な解決へ導くことで作られている。『トイ・ストーリー』ではウッディが自らの居場所を渇望しバズが出自を問うなかで、おもちゃを壊しまくる悪ガキが立ちはだかることで物語が展開していく。「おもちゃが意志を持った世界」に”動機”と”紐解かれざるもの”を置き、そこに立ちはだかる壁を作ることでストーリーを展開させている。しかし、そこで問うてはならないのは「そもそもなぜおもちゃが意志を持って喋っているのか?」だ。それを問うものにとって、トイ・ストーリーはうわごとである。しかしそれに答えを出してしまったら、もはやそれは現実の平凡な地べたへと滑降し、CGさえも薄ら寒くなるだろう。

『耳なし芳一』という怪談がある。盲目の琵琶法師・芳一はよなよな怨霊にそそのかされ、平家物語を弾き語っている。このままでは芳一が殺されてしまうと案じた和尚は、自分が留守の間、芳一の体に般若心経を書いておくことにした。お経が書かれている部分は怨霊には見えなくなると和尚は知っていたのだが、不幸にも耳だけに経を書き忘れ、芳一の耳は平家の怨霊に持っていかれてしまう。

ではここで問うてはいけないものはなにか?それは耳以外のすべて、つまり陰茎や尻の穴にいたるまで和尚は般若心経を書き込んだのか?ということだ。そのリアリティを追及しても怪談としての本質を損なうだけであり、むしろ滑稽本になってしまうだろう。逆に「芳一のチンポに般若心経を書こうとする和尚」をお笑いのネタにリメイクするのならば、その後に芳一が耳をもぎ取られる苦しみを描いてはいけない。そんな生々しい痛みを刻み付けたところで笑えないし、そこは能動的に問わないでおく部分なのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?