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笑う、ということ。

子どもの頃からお笑いが大好きで、漫才番組があれば必ず見ていた。関西人らしく土曜日は新喜劇の日だったし、M-1は初回から欠かさず見ている。一瞬NGKに入ろうかと思ったこともあった。大人になってからは時々劇場にも足を運んだりする。
(余談だが、ミスコンに出ると、大会出場者はファイナリストと呼ばれる。自分が出たとき「M-1と一緒や!」と喜んでいた。こんなやつはどう考えてもミスコンとは相容れない)

お笑いのこととなると大体笑った記憶しかないが、ひとつだけ不思議な思い出があった。
小学2年くらいの頃、親戚の家にいったとき、その場には私以外に3人子どもがいた。1人だけ6年生くらいの人もいたが、あとは皆同じくらいの学年だった。そこでたまたま漫才番組が流れていて、私はもちろんテレビにかじりついて見て笑っていた。だが、驚くべきことに、笑っているのは私だけだった。本気で、周りの皆が音が聞こえなくなったのかと心配するくらい、誰も笑っていなかった。もちろん、テレビに出ているのは人気の漫才師たちで、その人たちが面白くないとかいう訳ではなかった。

未だにこのことが忘れられなくて、先日話の流れから、この話を鍼灸の先生(お笑い大好き人間)に話してみた。すると先生は「たぶん、言葉が好きなんちゃいます?」と言った。

なるほど、と思った。たしかに、漫才は言葉の掛け合いだし、当時はまだ動きのある漫才コントよりしゃべくりが主流だった。言葉に興味がなければ、小学1、2年くらいの子どもならそもそも聞く気にもなっていなかったのだと、10数年越しに気がついた。

今、語学に携わりながら色んな言葉を使って仕事をし、プライベートでは言葉によって喜んだり落ち込んだりを繰り返し、あるときには「言葉に重きを置きすぎだ」と言われたこともあったが、子どもの頃からその兆候は見えていたんだな、と改めて気づかされた、そんな冬の日。



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