絹と木綿

はじめてnoteを書きます。
昔から言葉を探す時間を作ろうと思っていてずっとやろうと思っていたのですが、中々めんどくさくて、、、ただ、NHKでやってる“言葉にできないそんな夜は”とか好きな人の書くエッセイとか読んでると、少し書きたくなっちゃいました。

ただの独り言だと思って下さい。snsのプロフィールにはリンクとか貼ってるかも。独り言だからスクショして冷やかしで送ってきたりとかしないでね。


豆腐ってどれくらい食べます?僕の家ではどんな形であれほぼ毎日豆腐を食べる。だから僕は豆腐があまり好きじゃない。

豆腐が食卓に並ぶ理由はただ一つ。父の好物だからだ。父は豆腐にはこだわりが強くスーパーの豆腐ではなくいつも“下町の豆腐屋”って感じのお店で買ってくる。さまざまな店で常連になっては揚げ豆腐をおまけしてもらっている。全く、下町に甘えやがって。

年間を通して味噌汁はもちろん、夏は冷奴、冬は湯豆腐。さらには通年で厚揚げ豆腐。これを20年間食べ続けているんだから、果たして何丁の豆腐をこれまで食べてきたのだろう。もうお前のことは知りすぎたよ。飽きてきた。


ただそんなマンネリ化してきた僕と豆腐の関係に革命が起きた。



食卓に並ぶ冷奴が僕の知っている豆腐の輝き方とは違う。いやいや、白って200色あるみたいだしまた新しい豆腐屋でも見つけてきたんだろう。と心の中で思いながら箸を入れると箸が豆腐に吸い込まれるではないか。


すかさず父に豆腐屋を変えたのかと問い詰めたがいつもと同じ豆腐屋だという。


一つ異なることがあるとすればいつもの“木綿豆腐”が売り切れていたため“絹豆腐”を買ってきたらしい。

衝撃だった。僕は豆腐のことをたくさん知っていたつもりがそれは豆腐の半分に過ぎなかったみたいだ。

と言うのも、うちの父が大の木綿好きな影響か、うちの食卓には毎日木綿豆腐が並んでいたのでこれが人生で初めて絹豆腐をたべた瞬間だった。


当たり前のバイアスは非常に怖い。もし私がうちの当たり前だけが正しいと判断していたら私は豆腐の半分しか理解してないくせに全て知ったような口で豆腐のことを魅力がないと判断し続けたかもしれない。

このバイアスは真面目に育てば育つほど強くかかるものだと最近強く思う。

僕は小学校から何かに反発することなく過ごしてきた。そのせいか小学生の時は廊下を歩くと優等生の頭文字を取ってYTS!YTS!とどこぞの合衆国を応援するかのように叫ばれていた。

また、中学校も高校も大学も行くのが当たり前だからと思って進学した節がかろうじてある。

そして就職先もまた僕の家にとって当たり前の選択を取ってしまった気がする。


当たり前の軌道から自力で外れるためにはとてつもない労力がいる。もしかするともう二度とそのレールには戻れない程の力を加えないとその軌道からは出られないのかもしれない。

だから僕は自らの当たり前の軌道から逸脱している人を見ると動けなくなってしまう。

(ここでいう当たり前の軌道は僕の持つ価値観の上です。その人にとっては逸脱した軌道こそが当たり前の軌道なのかもしれません。)

かっこよく見えすぎる。光って見える。憧れに近い感覚だと僕は思っている。多分今読んでいるあなたもその1人だと思う。

そんな憧れに一歩でも近づきたいと思ってこのnoteも始めたのかもしれない。僕も少し頑張ろうと思う。私の当たり前の軌道の上に石ころを置くつもりでnoteを書いた。

明日の夕飯も絹豆腐らしい。




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