【英語発音】基本練習に対する逆風に負けずに貫く
はじめに
私は何かと「基本」を大事にするタイプです。これまでの人生で、基本重視で打ち込んできたものはいろいろあるのですが、対象が何であれ、続けるうち「上手くいかないこと」は出てくるもの。どうしても中途半端になってしまうことが多かったです。ところが、英語発音については、いろいろな背景による強い意志のおかげで不思議と基本重視が貫けています。
いずれにせよ、基本を重視するとなると、「練習を続けること」が意外と難しかったりします。
人目が気になって集中できなかったり、人からの不用意な発言が原因で、嫌になってしまうことがあるんですよね。もし、それでやめてしまったら、とてももったいないことです。
想定事例と対策方針
「嫌になってしまう出来事」として、以下のような事例を想定してみました。
英語発音を基本から始めたとします。
家で練習していて、リビングへ戻ると家族から言われました。
「英語の発音を習い始めたんだって? ネイティブみたいにカッコよく練習していると思ったら、そんなもんなの? それって英語? なんか変な音だね、そんなんだったらオレにでもできるよ、アハハハ」
こんなこと言われたら「ガーン!」ですよね。これは作り話なのですが、いかにも「あるある」だと思いませんか?
英語発音に限らず、こういうセリフは、本来、絶対禁句だと思うのです。
「真剣に取り組んでいる人」に対して、周囲の人(特に何もわかっていない人)が、からかったり、茶茶を入れたりするのはもってのほかです。
でも、現実はこういう世界だから、めげずに頑張っていかないといけません。
対策の基本方針としては以下2つが挙げられそうです。
こういうことが起こらないように手を打つ
少々のことがあっても動じないようにする
物理面と心理面に分けられそうなので、もう少し具体化して、対策方針を考えてみます。
練習環境を整備する
考え方を整理して信念を持つ
では、次項から、それぞれ具体的に考えてみます。
練習環境を整備する
何かの練習を始めようとするなら、その練習環境(場所、道具、時間など)を確保しなければなりません。
練習が必要とわかっていながら、その練習のための環境を整えることができなかったら、その段階で挫折してしまっているんです。
とはいえ、発音の基本練習をするのには、なにも特別な「練習室」みたいなものを用意する必要はありません。コストゼロ。ちょっとした工夫です。
とっかかりとしては、「車の中」とか「お風呂の中」とかが定番ですね。
また、コロナ禍の時は、みんなマスクしていたのだから、中で「口の形の練習」ならいくらでもできました(声を出さない「息だけの発音練習」には少し注意が必要ですが)。今ではマスクに対する考えは様々ですが、「しててもおかしくない場面」だったら、その中で練習できます。
別にマスクがなくたって、たとえば、thの無声音の練習なら、「当て具合の調整の練習」がほとんどなので、どこでもできます。私は、歩くときに、ステップのリズムに合わせて「th, th, th」とかやることが結構ありますよ。thのような音がキレイに出せるかどうかなんて、ほとんど練習量(年季)によるものです。
家の中では、家族の理解が必要です。
「英文をペラペラ言うのではなく、基本として発声練習のようなものが必要なのだ」ということを説明してわかってもらいましょう。
(それを言って変なことを言われたら、理解してもらうのはあきらめ、物理的に聞こえない領域を作るべきです。)
理解が得られたら、「ちょっと変わった練習をするんだ」という気持ちを高めるためにも、普段とはちょっと違った場所に、練習領域を作ってみるのはいかがでしょうか。
私自身、自宅での練習は、そんな環境でやっています。最近、「立って練習」するスタイルに変更しました。物置のようになっている部屋の一角に、人が立てるほどのスペースを作って、ダンボールを胸のあたりまで積んで仮設の台を作り、そこに道具を置いて練習しています。
道具としては、基本的に「鏡」と「録音器具」だけです。録音器具としては、私は電子辞書(カシオ)の「聞き比べ機能」を簡易レコーダー代わりに使っています。
時々、音の高さの確認のためにタブレット(iPad mini)を使うこともあります。
以前、「自分の声を厳密にフィードバックする」ことをテーマとしていた時期には、それなりの機材を使っていましたが、最近の日常練習では簡易器具で十分となりました。
また、基本練習では、テキストやメモは不要です。基本練習は、毎日同じセットを「繰り返し練習」するものです。ちょっとしたメモぐらいなら必要なことがあるかも知れませんが、原則、練習場所にテキストなんて要りません。スポーツの素振りでもそうでしょう。
考え方を整理して信念を持つ
発音の上達には、「練習をするということ自体が得意か苦手か」ということが大きく影響すると思います。世の中、根本的に「練習」というものに抵抗感がある方が多いように思います。でも私は変わっていて、なぜか、「練習」、それも「基本練習」を好きになることが多いんですよね(もっとも対象物によりますが)。
そんな私の考える「練習」や「基本練習」に対する心構え(開き直り方)を書き出してみます。「考え方」なので人それぞれですが、「こんな見方もあるのか」と思っていただけたら幸いです。
練習は、そもそもカッコ悪いものだと開き直る。
練習は、そもそも失敗するもの、失敗を繰り返すものだと開き直る。
基本練習は、自分の内面と向き合っているものものだから「本来は見せないもの」だと考える。
基本練習で見栄を張ったら負けだと心得る。
1.と2.は、「練習論」みたいなもので、私なりの持論はありますが、ここではテーマが大きくなりすぎるので割愛します。
ここでは、3.と4.について、私の考えを述べていきます。
基本練習は、本来は見せないもの
以前の記事にも書いたとおり、最近、私は「自分の内面」と「英語や英語発音」のことを結びつけて、何らかの関連を感じ取ろうとしています。
<以前の記事>
思いを馳せるうち、「基本練習に打ち込んでいる姿」について「極端なイメージ」が頭に浮かびました。
次のようなイメージです。想像できますでしょうか。
なんというか、自分の表と裏がひっくり返って、内面の部分が表側に出ていて、その「内面が露出している自分」が練習しているようなイメージ。
突拍子もないので、想像できないかも知れないし、気持ち悪いかも知れないですね。でも、この世の「三次元の世界」だけでは理解できないような世界があるとしたら、こんなこともあるんじゃないでしょうか。
こんなことを考える私が最近感じている世界観では、「基本練習というのは、自分の中身が練習している姿だから、見られたくない」のです。私の妄想の世界なので、訳がわからなければスルーしてくださいね。
一応、私の考えとしては、「“基本の基本”をやるうちは、見られないようにする」のが本来。でも、練習が少し進んで、露出しているフワフワとした内臓に、皮ができて毛が生えれば、見られても大丈夫になるんじゃないかな?という気がします。
基本練習で見栄を張ったら負け
つい、やってしまいがちなのが、基本練習をやるはずだったのに、人の目(耳)を気にして、練習課題を難しいもの(難しく聞こえるもの)に変えてしまうこと。
もしそれを始めてしまうと、練習効果はほとんどなくなると思います。ただでさえ貴重な練習時間がムダになり、とてももったいないと思うのです。
つい、難しいことをやってしまう(本来のテーマである基本練習をやめてしまう)のは、照れ隠しや、恰好をつけようとしているからだと思います。簡単に言えばプライドです。
でも、よくよく考えると、「気にする相手」は、英語なら英語の技量が、発音なら発音の技量が、「自分よりレベルが低い人」のはず。自分よりハイレベルの人に対して恰好をつけてもすぐにバレます。「この人なら多少違ったってわかりゃしない」ということで「煙に巻いている」んですよ。
人情だからよくわかるんだけど(私自身、いろいろな分野でやってきていることです)、そのテーマに関して自分より下の人に対して、そんなことする必要はないんじゃないかと思うんです。相手がライバルなら「すぐに追いつかれそうで怖い」という気持ちがあるかも知れないけど、相手はそのテーマに関心はなく、練習する気もないんだから、恐れることはないんですけどね。
なぜ気になるんでしょう。
もしかしたら、「基本練習」を「たどたどしく」やっていると、冒頭の例のように「そんなんだったらオレにもできる」と思われる(言われる)のが怖いのではないでしょうか。
だとしたら対策は簡単。
たとえ基本練習でも、「こんな練習、お前にできるか!」というレベルの練習をしてしまえば良いのです。
「恐る恐る声を出す」のではなく、どんな簡単な題材でも「バシッと決める」みたいな。
または、「とても真似できないような練習方法」を編み出す、というのもアリだと思います。
よく、「その道の達人やプロが、簡単なことをやっても絵になる」ということがありますが、このような「迫力のようなもの」があるのかも知れません。
さきほど、わかりにくい例として出した「内面がひっくり返って露出しても、皮ができて毛が生えれば大丈夫」というのは、こういうことなのかな?という気がしてきました。
かく言う私は、「基本的なことをハイレベルでやる」ということに価値を置いています。今では流行らない考え方ですが、数少ない「基本重視」の方には、ぜひ、「基本を通過点にする」のではなく、「基本をカッコ良いものにする」までこだわってみるのをおすすめしたいです。
まとめ
思ったより話が広がりすぎてしまったのですが、ポイントとしては以下だと思います。
物理的対策はした方が良い。簡単な工夫でできる。
練習や基本練習に対する考え方を整理した方が良い。
基本練習で見栄を張らない。
基本練習は本来は見せないものだが、真似できないようなレベルの練習にしてしまえば怖くない。
今や、「練習」とか「基本練習」といった概念自体が受け入れられにくくなってしまっていて、日本の将来に不安を覚えます。取り戻しましょう。
対象が何であれ、本当に上手くなろうと思ったら練習は必要なことです。最短距離を探すばかりではなく、たまにはこういったことにも目を向けてみてはいかがでしょうか。
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