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【英語発音】外向けの発音と内なる発音


はじめに

私は、「日本人でもネイティブと実質的に同じ音は出せる」という考えで活動しています。ただ、そういうことを言うと、どうにも「胡散臭く」感じられてしまうのではないでしょうか。

英語や発音の話になると、頼んでもいないのに口を挟んでくる人がいたりしますよね。そういう人の中には「自称、発音が上手い」系の人がいて、「なんか口うるさいオッサンが、いかにも英語っぽい感じで発音している」・・・そんなイメージが浮かびませんか?

私は、このnoteでプロフィールなどを書いたあと、「もしかしたら私もそんなふうに思われてしまうのではないか?」と気になっていました。

私の場合、胡散臭さは前述のオッサンと同じようなものかも知れませんが(笑)、「英語っぽい感じ」の部分が全然違うのです。

私は「基本重視」の「練習大好き」人間。「それっぽい感じにする」なんてことは基本的にしない人なんです。それを最初にわかっていただきたいです。

「発音」という言葉から受ける印象

「英語の発音」という言葉が出ただけで、「何か独特な雰囲気」を感じることはないでしょうか。何となく敬遠したくなるような場の雰囲気。

私は、「いったいこの空気感は何だろう」と考えているうち、「世間がイメージする発音」と「私が言っている発音」では、「まるで違うことを指しているのではないか?」と思うようになりました。

ここで、私が感じている「発音の世界」を図で表してみました。冒頭のイラストがそれです。

(私は通常、「発音を底辺にした三角形」の図で説明するのですが、今回は、円を使った説明に初挑戦です。)

このような単純化した図で説明しようとすると、何かと無理が出てきたりするのですが、現段階(2024年8月)では、このイメージが私の感覚と合っているように思います。

ちなみに、私は、それなりに発音をやってきているので、科学的な学問・学説や、巷で言われていることについては、ある程度わかっているつもりです。賛同することもあれば、違うと思うこともあります。ただ、ここでは、そういうことにとらわれず、あくまで自分自身で何年も練習を積み重ねた結果として感じている内面の変化を元に、私の感覚を述べることにします。

2つの発音

私は、英語能力に関わるような「発音」には、大きく2つの領域があると感じています。

【英語発音】外向けの発音と内なる発音(筆者の実感に基づく)

1つは、外の世界に接した「殻」の部分で、もう1つは、中心にある「核」の部分です。

その中間の「実」の部分が英語能力で、ここも2つに分かれます。

外側が、「勉強して頭に入れていく」部分。「どういう順で学習するか、どうやったら記憶に留まりやすいか」などと、多くの方が工夫されている部分。つまり、ある程度自分でコントールできる部分です。

一方、内側が、自分ではアクセスできない内面の部分です。実態はわからないけど「脳の中で何かやっている」謎の部分。私は、この内面の部分が言語能力の真髄だと思っています。世間で、よく「英語脳」と言われている概念と似ているかも知れません。

世間一般で言われる発音

世間で「発音」と言われていることは、多くの場合、外側の「殻」の部分のことを指しているのではないか、と私は感じています。

どういうことかと言うと、発音は「外の世界に向けるもの」「あくまで人に聞いてもらうためのもの」という位置づけだということです。つまり、まず前提として「相手」が存在し、その相手に「確実に通じるようにしたい」「上手いと思われたい」などと、人間関係が絡んでくる世界なのです。

さらに前提を加えると、音として発するのものは、(レベルは様々であれ)出来上がった「英語のセリフ」だということ。

カタカナ的だろうが何だろうが、とにかく、目的があって意味がある「英語のセリフ」を外に向かって発信している訳です。

そこで、この「殻の部分の役割」は、この「英語のセリフ」を、「通じやすいように」「上手く聞こえるように」改善するというもの、だと言えます。

よく「発音矯正」という言い方をしますが、「矯正」というからには、何か「その元となるもの」があるはず。ということは、この殻の部分は、調整のための補正値。つまり「相対的なもの」だと言えるのではないでしょうか。

私が重視する発音

一方、私が「発音」と呼んでいるのは、中心にある「核」の部分です。

これは実用のためのものではありません。別の言い方をすると、「既にある英語能力」を「相手」に向けて「表出」するためのものではありません。「誰に聞かれる訳でもない自分の中の世界」なのです。

私は、「誰も見向きもしないぐらい基礎的な題材」を使って毎日発音練習を重ねているのですが、私自身がやっていることは、おそらく「母語として持っている日本語の領域とは別のところに、もう1つ、核となる部分を作ろうとしている」んだと思います。

私は、普通の英語学習では思うような成果が出ませんでした。でも、発音が好きで、何かと英語をやってきたので、私の中には、「アメリカ英語の音のイメージ」がしっかりあります。

むろん、アメリカ英語といっても相当な幅があります。私の場合、お手本となる何人かのミックスで、比較的コンパクトな幅に入っていると思います。

その、音のイメージ(自分なりの「参照標準」)と、「自分が実際に発する音」との差異を見つけては詰めていくのです。

私は、良くも悪くも「カタカナ発音だけど流暢に話せる」という技術は持っていません。だから私にとっての「発音」とは、「既にできているカタカナ英語」に対する「補正値」ではなく、ネイティブ発音を目標値とした「絶対値」なのです。

この「核」の部分は、「誰かに聞いてもらう訳ではない内面のもの」ではあるのですが、黙っていては身に付きません。これを身に付けるためには、実際に声に出して、録音して、同じく内面にある「参照標準」との差を見つけ、なんとかして近づけていく工夫をしないといけません。

人に見てもらいたい訳ではないのに、ひたすら発音練習をする必要があるのです。この辺が、「わかっていただきにくい」ところだと思います。

ネイティブっぽさ」を求めている訳ではないので、練習は、正直、恰好の良いものではありません。近づける作戦として「実際にはない音」を出すこともあります。フォームを作るにはどうしても力を入れる必要がるので「変な音」になることも多々あります。でも、年月を経て練習するうち、気がつけば近づいて行っているのです。

ネイティブ発音に近づける必要があるのか

さて、ここでひとつ疑問が出てきます。
私が重要視するのは「内面の音」なのだから、「果たしてネイティブの発音に近づける必要などあるのか?」という疑問です。

それがあるのです。以下、4つの理由を述べます。

まず、私が言う発音は、既に身についている音に対する補正(相対値)ではなく、「英語能力とは無関係の絶対値」だからです。「」から始める訳だから、その目標としては、「理想を追い求める」のが普通の発想で、わざわざ目標をずらす必要などないのです。

2つ目。「実力としての技量」と「実際に使える技量」との間には大きな隔たりがあるため、「実力は良くしておくに越したことはない」と考えているからです。

意外と思われるかも知れませんが、私は、「最終的にしゃべる時の発音をネイティブっぽくする必要なんてまったくない」と考えています。むしろ、しょせん外国語なので、「いかにも日本人が苦労してしゃべっている」ぐらいで十分だと思っています。たとえば、練習時を100点として、とっさに出るものは20点ぐらいになってしまうこともあるでしょう。でも「通じない」のは絶対的にアウト。「とっさの20点でも確実に通じる」ためには、練習では、相当しっかりした音を出すようにしないといけないのです。

3つ目。発音を突き詰めると、リスニングが良くなるからです。

「発音ができるようになると聞こえるようになる」というのは、私の経験上、本当です。とは言っても、「ア、ア、ア」みたいな「短い音」が「似ている」だけでは、効果は薄いと思います。

発音器官(口周り、喉周り、呼吸器周り)の動き(時間的な変化)は、日本語と英語とでは大きく異なります。これらの動きが、絶妙なタイミングを含め、全体として一致して初めて瞬時に認識できるようになるのだ、というのが私の仮説です。そのためには、「え?そんなところまで?」というところまで真似る必要があるのです。

そのような考えで練習していると、「基本練習ばかりやっているのに、いつの間にかよく聞こえるようになっている」ということを私は何度も(何段階も)体験してきています。

最後に、私はレッスンプロとして「お手本」を示せるようになりたいからです。

私は、自分自身が英語を流暢に話そうとは考えていません。私は今年で60歳になります。「英語を人生の何に使うか」ということが、多くの英語を学んでいる方々とは既に異なっているんですよね。

今よりもはるかに英語力が低かった頃でも「窮地に追い込まれたら何とかなる」という体験をしてきているので、話すことに関してはそれで良いのです(リスニング力はもっと上げたいと思っていますが)。
そんなことより、私は、日本人の英語発音にまつわる問題を少しでも改善したいのです。「日本人の限界」と決めつけられてしまっていることを超える人が1人でも多く現れて欲しい。そのためには、私自身に限界を敷いてしまってはダメなのです。

純ジャパの英語の先生が発音のお手本を見せるというのは、(あえて言いますが)実は非常に難しいことなんです。それぞれ得意なことを活かして工夫して頑張っておられる先生方の発音を批判するのは、冒頭に書いたような「発音に対する独特な空気」を生む原因となり、良くないことだと思います。
よって、発音が得意な先生でも、お手本となれば、教材を活用したり、ネイティブ先生の助けを得たりすることがあってもおかしくないのです。ただ、私は、自分の信念に基づき、どうしても自分でやりたいのです。

まとめ

私は、「日本人でもネイティブと実質的に同じ音は出せる」と考えていますが、それは、決して「恰好良く見せよう」というものではありません。むしろ、実際に話す際には日本人なまりで十分だと思っています(ただし、通じないのではダメ)。

私が言う発音は「内面」にある「核心」の部分。その目標値(進む方向)をネイティブ発音にしましょう、と言っているだけだから、「変化球」ではなく「ド直球」の話なのです。

「英語の発音」という言葉を聞いた時の独特な雰囲気、何となく敬遠したくなるような、時には何か「いやらしさ」すら感じる雰囲気・・・私はそういうのが嫌なのです。1人1人のレベルに応じ、こねくり回さず、ストレートに、爽やかに練習すれば良いと思っているのです。
スポーツで「素振り」などの基本練習に打ち込んで汗を流しているイメージ・・・と言ったらわかっていただけるでしょうか。

「この人、英語の発音をやっているんだって。それもネイティブ並の発音を目指すとか言っているよ。」と聞くと、なんか、妙な雰囲気が漂いがちですね。でも、私は、決してそんなふうではない、つもりなのです。

これで、少しでも「胡散臭さ」が解消されたら幸いです。

思わぬ長文になってしまいました。ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。


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