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溶けゆく肌

「境界」は、そう簡単に弛みをみせることがない。

たとえば昨日と今日。眠りが分断しているようで、そこにある明らかな時間的継続を否定することはできない。
旧友。場所を隔てようにも、切っても切れない堅固な糸が破綻を無意識に阻む。
そのほかに、血の繋がりはどうだろう。家族や親族同士の肉体的・骨格的な傾向は、歩き方、食事、性格など、生きる中にあらわれるあらゆる要所にその継承があることを、側からも見て取れる。

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しかし、自らをセルフポートレート写真に収めることを続ける中、気がついたことがあった。

身体表現のバリエーション、ライトや構図の定着化、撮影者である共創パートナーとの無意識的な意思疎通。
こういった回を重ねるごとにおのずとスキルアップしていく、慣れのような、ある種 ‘分かり易い技術’ を傍目に、撮影者と被写体との狭間に潜む、写真の主体、被写体としての自分と撮影者、その両者の関係変化、そこに特別の注意を向けるようになっていた。

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撮影前に話す、彼と私のなにげない近況。そこでの小さな気づき。そして、偶然にもそれと繋がる自身との意外な関係。
これは、単なる偶然に過ぎないのだろうか。撮影者との境界性が徐々に融解していって、妙な一体感へと歩み寄っているような感覚がある。

スーザン・ソンタグの著で目にした『撮ることとは、レンズを介した間接的な性交』という言葉が、俄かに脳裏に浮かんだ。
ただこれは、通常のそれとはかけ離れたもので、カッコ付きの ‘性交’ なのだと断りを入れておかなければならない。なぜなら、そこには一切の身体的接触やオーガズムを伴うことがなく、ましてやその最中に ‘性交’ という語が浮かぶことすらないのだから。

このカッコ付きの ‘性交’ は、精神的または無意識的な概念という前提で、自分自身との性交、という意味にもなり得そうだ。
撮影の数を重ねるごとに、心地の良いライトや構図を知るほか、自身の肌のテクスチャーを知り、筋肉や身体の柔軟性の閾値を知り、心地のよいポーズが何かを知っていくように。

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プラトニックなラブが何かを熟知することは難しいかもしれないが、この3年ほどのセルフポートレートの試みから、プラトニックな ‘性交’ のニュアンスを捉えることはできそうだと、ここに来て、妙な納得感を以って言いうことができそうだった。

そこでは、一切の接吻も愛撫もオーガズムも起こり得ず、自身と肌との境界線、撮影者との自身の境界を精神的に侵すことであり、セルフヌードポートレートの中、溶けゆく肌に特別の学習や表現を求めるようなことはなく、ただただ悦楽を見出す考え方もできるのだと、気がついたのだった。

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