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頭の中を卓上に

綴ろうとおもえない中を、強いて言葉を絞り出そうとするのはどうしてだろう。

夜遅くにみた映画のせいだか、そうでなければ、捗らない作品づくりのせいだろうか。
静かに唸るMacと、時おり山手通りを走らせる車のエンジンをよそにして、タイピングでテーブルのグラスの氷が揺れる。ヘンに古い映画のせいか、シューマンを徐ろに聴いてみたりする。

ー 高校の学園祭のように、義務感も使命感すらもない心地で、ひとと一緒になってものをつくり続けてみたい。

秋の開催めがけて、夏休み中でも部活の後でも、喜んでクラスの出し物の協力に出向いた。ありものでふざけて遊んでは、なあんにも作り終えることなく1日を終えたこともあったかもしれない。
その時には、ただただ楽しくって準備に対峙していた。高校総体で、野球部やサッカー部、バスケ部なんかの体育会の連中が頑張るように、文化祭や学園祭で、軽音楽部や奏楽部や落研が頑張っているんだ、なんてふうにだけ思っていた。

体育会の連中がフィジカルな筋肉を使う時、文化部の連中は、”感性や創造性とかいう頭の筋肉"を存分に鍛え上げていた。後になって、それがどれだけ必要なことだったのかと痛感するのだけれど。

ただ正直に、その日ひとに言われたこと、話したこと、目にしたもの、選んだものに対して、自身の正直なリアクションを手にとるように把握できているのか、ということ。
毎日のトレーニングで体に筋肉が備わっていくように、日々身に振り注ぐ物事を対し注意深く観察していれば、頭の筋肉は自然と備わっていくように思える。

『なぜ彼とはソリが合わないと思うんだろう?』
『なぜこの文章はこうも婉曲な言い回しをしているんだろう?』
『なぜ今日はこの時間まで起きていようと思ったんだろう?』

「なんとなく」「なんか知らんけど」「とりあえず」

国語のセンター試験で必ずある、右記の文中より主人公の心境として妥当な解説は次のAからCのうちどれか、なんていうのを思い出してみてほしい。
その正解を考える時、推論や考察を経れば確実になんらかの心境が見えてくるはずだ。「なんとなく」なんてものはそう多くはないはず。

四六時中、あからさまに感情を爆発させ続けるひとなんぞそう多くはない。
そうだからこそ、話していると、考えていると、見続けていると、必ず、何かしらは見つかる。

矛盾が見つかる。反例が見つかる。不和が顔をのぞかせている。
おや、かすかな嫉妬か、期待もあるかもやしれん。
×××への関心が高いのだな、かたや〇〇〇へは好戦的だ。

そうして育まれた頭の筋肉は、一体どうのようにして活用されるのだろう。
それは、フィジカルな筋肉と違って目に見えるものではないのだから、何かしらかたちにして出力せねばならん。
それは、文字でも絵でも、造形でも、グラフィックでも、なんでも構わんと思う。

その中でも、私は写真にやられているのだと思う。
誰にでも、ぱちっとシャッターを押せば出来上がるのだし、昔と違って、現像して引き伸ばしして、紙に残さなきゃいけないなんてことも、もうないのだから。

学んだ知識、見て知り得たこと、わずかにでも感じた喜びや違和感。そんなものをテーブルに撒き散らして、存分に語らおうじゃないか、自分と、自分の中の小さな自分と。

美術館で見た額装の、マットフレームの大胆さ。
前の人の駐車券のレシートがそのままになっていて、自分のを取った時に落ちていった前の人のレシート。
拾った千円札3枚を、どうしようと思いとりあえず最寄りのコンビニに預けた時の善意と不安感。
お腹の調子が悪いからと、体がべたつくのを覚悟してエアコンを消した勇気。
話をしたとある人に多くの矛盾があるのを見つけ、それを統合失調か何かと感潜って交際を遠慮しようと思い立った私自身を発見したこと。
フランスに行くべきか、かたや英語圏か、本当に迷ってはいるものの実際にはどちらでも、行けばその先でなんとかなると考えている呑気な私を発見したこと。
一体何を撮り続けているのか、本当に分からないこと。でもとりあえずは目にしたモノと自分自身とを写真上で重ねることをやってみようと決断した私。

- 私の頭の中


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