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思考の清掃処理場

錯乱している。

混濁したアタマから出てくるもの。その全ては本来、製造工程のレールから外れて不良品として破棄されるはずなのに、それなのに近頃、どうもそれが何食わぬ顔して私の姿勢や言動に現れてくる。

髪の毛を赤く染めてみても、それは変わらなかった。
髪の長さからして美容師さんも困惑するわけで、剃刀で剃り上げたのち今やようやく指と指の間で挟めるばかりだ。『確かに最近韓国系では流行ってますしね』と言われても説得力には欠ける。一言二言の会話を交わして染髪が終わると、足早に店を後にした。一風変わったスタイルで悦に浸ることはできても、心の平静は保って1、2日くらいにしかならなかった。

情操教育にふさわしくないティーンドラマを見続けているが、果たしてそれも効果的なのか分からない。むしろ、反逆心とか暴力をふるうことの肯定とか、あまり好ましくない感情を育んでいて却って逆効果なのかもしれない。

朝の目覚めがこの上なく最悪なのも、混濁したこのアタマのせいなのかもしれない。
寝床に就く前どれだけ麗らかなカントリーミュージックやピアノソロを聴いても、いつもやっていたように朝起きた瞬間の行動をイメージしてから眠りに就いても、会社の出勤簿には「遅刻」の記入が増えていく。ランニングやサウナも、一体全体なんの意味があるのかも分からなくなって、ただ疲れるだけのことだと、馬鹿らし思えてくる始末だった。

おそらく原因は仕事にあるのだろうけど、もう勤めて2年にもなるというのに、今更何が不満というのだろう。もちろん、意味不明な規定や社風が存在することには未だ首肯できないが、『仕事は仕事で、お金をもらってる分は働いて責務を果たす』というのが筋だ。それに耐えられないのであれば辞めて仕舞えばいい。
… これはただ単純に、自身のポジションや役回りがより上流になり、一方で実直に将来に向かってキャリアアップしていく同僚の姿に翻弄されているだけなのではなかろうか。

『仕事の鬱憤は仕事で晴らす他ない』とは言うものの、あるようでないけれど埃のように薄く積もり続けていく鬱憤は、果たしてどう処理すればいいのだろう?姿勢や考え方が成ってないのではないか?
ただ、仕事と言いがたい仕事、業務と言いがたい業務の中で、どう晴らせばいいのか。アタマに降り積もっては混濁させるこの鬱憤らしからぬ鬱憤。打ち払う方法があるようだけれども、どうにもその先には霞がかっている。

本当の要因は仕事なんかではないのかもしれない。
一生やっていくと決めた「写真」とはほんの2年の付き合いでしかないが、そこには早くも異様なほどの執着を持っている。『メシを食うためならば』というライスワーク的な働き方が元より不向きなうえ、写真と関わりのある仕事以外にはどうにも興味が湧いてこない。
ついこの間ヌード写真を撮ってくれた彼女は『写真さえ撮れればなんだっていいのだから』と言い、リゾートバイトで短期集中的に資金をかき集めては、ぶらぶらとあちこちで写真を撮っているようだった。残念ながら私にはその生き方はできそうにない。火の立つところの野次馬の中、最前列に立ってその様を焼き付けたいし、できることならその火中に入り込みたいとさえ思う。いやいっそ、火そのものを起こしてみたっていいかもしれない。ともあれそういう具合に、違うのだった。私の場合、ただ撮れればいい、というわけではなかった。そうであるにしても、どうのようにして写真と関わっていけばいいのかが分からないでいる。

さっき話したことを今もう、忘れてしまっている。

『明日を遠足だと思えばいい』『人を使って動いてもらえばいい』『新しいことを始めればいい』… 変わるためのアドバイスはもうたくさんだったけれど、この変わり者だらけの家は一向に変わることなく、そこにあり続けていることに気がついた。
夜になれば誰かが料理を作り始めて、いつもの通りに遅めの晩ごはんが始まっている。がやがやと騒がしい食事が終われば各々が、デスクに戻り、居間に寝転がり、自室のベットに身を預ける。住人たちに明白な向く先があるからこそ、居所に過ぎないこの家は何一つ変わる必要がないのだろう。

自暴自棄で厭世的、嫌味ったらしくて身勝手な無様さだ。
ジェットコースターのような感情落差で落ちるとこまで落ちたいのだけれど、何一つ変わらずそこにあり続けるこの家にいると、自然と恒常が保たれて落ちるとこまでは決して落ちない。「落ちる」と言うことがどういうことなのか皆々がわかっているのだろうし、その中には身をもって知っている住人もいるのだから。思い返して、愛があるようにすら感じた。

一切合切なにごとも手につけずただ呆然とする時間が、この家に住み始めてから出来るようになった。そうなってみると、幾重にも積み重なった記憶の下層から、小学生の頃のクセや言動や心境がぼんやりと浮かび上がってくる。
『それがどうした』とは言わないでほしい。その事実、それだけが重要なときの方が多いのだと、こうなった今もうすでに気がついているはずだ。習慣の修正は、思い立って意識を始めて、忘れ去られて記憶の下層に溶け落ちた時、ようやく効能を発揮してくるものだということも、もう知っているだろう。

逃げ出した2023年の11月最後の日。明日には今年最後の月を迎え、私の年齢からして統計上青年の枠から壮年へと変わる。投げやりに話を持ちかけたあのカメラ屋には申し訳のないことをした。結局のところ、続けていくことでしか価値を生み出すすべはないのだ。「兆し」なんかでは何も変えられず、変えられるのは行動であり、それをもってして何かを成しうるまで無心で続ければいい。そうすれば、全ての煩悶苦悩と労役とが相総じて報いを与えてくれる。
ただ一つ。『夜間飛行』でリヴィエールが言っていた行動の源のようなものを、一体どこに委ねればいいのかという問いだけを見つければ良いのだ。"マクトゥーブ" も、一体それがどこに書かれているんだか知れたものじゃない。一人で踊っていても、それは奇妙な光景になるだけだ。百花繚乱な広場を期待したいのならば、一人で踊っていたって仕方がないじゃないか。

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