また、おるな。ハイヤーから降り、黒川は、スケッチブックに鉛筆を走らせている路上の若者を目に留め微笑んだ。先に降りていた孫の由衣が、黒川に杖を渡しながら言う。「またいるね。何描いてるのかな」若者に声をかけたそうな素振りの由衣に、黒川は「野村くんが待っておるぞ」と言い、目の前にあるビルの入り口に向かった。

エレベーターを最上階で降りると、義弟の経営する画廊がある。開いたままの画廊の扉から野村が顔を出し、大きな声で「先生、お元気そうで何よりです。由衣ちゃん、髪切ったんか。ベリーベリーショートやな。可愛らしなぁ」と笑った。朗らかな関西弁の叔父に会うのは由衣も久しぶりだ。

画廊の隅のソファに黒川を座らせ、野村は受付をしている従業員の女性に言った。「下の喫茶店からコーヒーとってんか。先生はいつものウインナーコーヒーでよろしですか?由衣ちゃん何にする?ここの喫茶店、ミックスジュースないんが残念やな」野村は言いながら大きな封筒から書類を出す。

「先生、例の画廊ですけどね、上手いこと、こちらの言い値で買えそうですねん。前のオーナーさんが亡くなって、娘さんが跡を継がれてるんやけど、なんやおとなしい娘さんでね、値交渉もハイハイこっちの話にうなづくばかりで」
黒川は図面に見入りながら言った。「そうか。その辺りは野村くんに任せるよ。私は世間知らずでねぇ」野村は満面の笑みで答えた。「それじゃ私の方で、あんじょう進めさせてもらいますよ」

野村は、大阪で代々続く不動産業を親から引き継いで繁盛させているが、たびたび上京して、東京の持ち物件のための仕事をする。黒川は、野村を妹の夫としての人柄の良さだけではなく、経営者としても評価していた。

コーヒーが届いたところで、画廊に、ラフなジャケットにジーンズ姿の背の高い男が入ってきた。「ああ、岩永くんか。来てくれてありがとう」座ったまま黒川が言うと、「先生、これちょっと見てくださいよ」と、岩永は左手のデジカメを持ち上げて見せた。

野村がテーブルの上の図面を片付けながら、岩永に言う。「ここ座ってくださいな。岩永さんの分のコーヒー取りますよって」礼を言って岩永がソファに座る。「そこの路上で絵を描いてる男の子がいたんでね、ちょっと見せてもらったんですよ」由衣が身を乗り出した。「気になってたんだよね!いつもいるんだもん」岩永が言う。「何描いてんの、って聞いたらね、塔を描いてるって言うんですけどね、なかなか良いと思って」

岩永のカメラに映された絵を、黒川は無言で見つめた。それはスケッチではなく、鉛筆をねかせて描かれた太い線をいくつも重ねたものだった。岩永が言う。「彼は絵を習ったことがあるわけじゃないらしくてね、路上でいつも街の景色をスケッチしているうちに、こういう描き方になったらしいんですね。僕は彼、抽象の才能があるんじゃないかと思って、先生に見ていただこうと」

黒川は、抽象画の世界では有名な画家である。由衣はその血を受け継いだのか美大に進学した。岩永はカメラマンだが、仕事で黒川と知り合い、もう20年以上も親しい付き合いをしている。

「面白いね」黒川は顔を上げて岩永に笑顔を向けた。その目が子供のように生き生きしているのを見て、岩永は、当たりだ、と思った。何かに興味を持った時の黒川が、今のように笑顔で目を輝かせるのを、岩永は知っていた。

「絵もそうなんですけどね、彼のね、表情がよくてね」カメラで画像を見せながら岩永が言う。「それで何枚か写真を撮らせてもらいました。なんていうか、暗い表情をしているんだけど、目の奥に明るい光があるんだな。僕は前に、チベットに写真の仕事で行ったことがあるんですが、その時に会った、現地の子供の表情を思い出しましたよ」

そこには、痩せた無表情な若者が写っていたが、カメラを見つめる一瞬の目の中に、キラリと光るものがあり、惹かれる写真だった。もちろん、カメラマンとして成功している岩永の手腕もあるだろう。しかしこの若者は、会ってみたいと思わせる表情をしている。なぜ彼がそこで絵を描いているのか、黒川は興味を持った。
「いいねえ。岩永くんも、出会った頃は少しこんな目をしていたね」「ははは。私も今じゃすっかり枯れた中年男ですよ」笑みを含んだ黒川の言葉に、岩永も笑顔を返す。「いやいや、岩永くんは若者だ。その若い感性でね、今度買う画廊をね、若い人の感性に合わせたものにしつらえてほしいと思っているんだよ」

黒川は、今いるこの画廊を義弟に経営させ、収入の一部は妹のものになるようにしていた。そして、この度、銀座の外れにある画廊を展示品ごと買い取り、ゆくゆくは孫の由衣を経営者にしようと考えている。由衣は奔放な、のびのびとした絵を描くが、画家よりもむしろ経営者に向いているのではないかと睨んでいるのだ。もちろん、由衣にはまだこの計画を話していない。若いうちにアーティストとして苦労する方が、孫のためになると考えている。

「そう、その画廊のことなんですがね。こう言う展示の仕方もいいかと思いまして」持参した図面を取り出し、岩永は新しい画廊の計画を話し始めた。


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