綾乃は、母の葬儀で忙しく、気がつくと2週間たっていた。突然のことだったので誰もが戸惑っていたし、何より父が気落ちして、呆然としたままだ。父がこのまま認知症になってしまうのではないかと、叔母たちは危ぶんだ。綾乃はそんな父を放っておけず、実家で寝泊まりしていた。

夫の哲也は、葬儀には参加してくれたが、綾乃の方から「仕事に」戻ってもらうようにお願いした。きっと遅れて北海道に行っているに違いない。けれど綾乃は、母の死に関するいろいろな手続きや、訪問者の対応に忙しくしており、哲也のことを思い出しもしなかった。母は銀座の外れに小さな画廊を持っていた。絵を描くことはなかったが、美術品や絵画の好きな人だった。父よりも社交的で、友人も多く、葬儀には多くの人が参列した。母の弟、すなわち綾乃の叔父が税理士をしており、画廊の経営にもなにかと相談にのっているようだった。

叔父は綾乃に、画廊は手放した方がよいのではないかとアドバイスした。儲けが出るわけでもなく、母の趣味が高じて始めたことだから、綾乃は持て余すだろうし、ここで父親の財産も含めて整理した方が、税的にもよいという話だった。綾乃はいろいろなことに疲れており、画廊を経営するなど考えられなかったので、素直に叔父のアドバイスに従うことにした。

母の死を悲しむ暇もなく、何もかもが淡々とスムーズに進んでいく。綾乃は以前にも増して空虚な気持ちで日々を過ごしていた。しかしそろそろ自宅に帰らなくては、と綾乃は考えた。父の身の回りの世話のことも含め、これからどうするにしろ、哲也を放っておくわけにもいかない。

母の葬儀のあと、哲也からは何の連絡も来ないまま2週間が過ぎた。そのことに気が付いて、綾乃は少し違和感を覚えた。いくら忙しくしているといっても、哲也は何かしらの連絡をしてきたし、メールも何もまったく来ないということは、今までなかった。母の死のことで気を使っているのかもしれない。綾乃はそう考えた。だとしたらこちらから連絡をするべきだろうか。考えあぐねていた時、綾乃の携帯電話に、登録されていない電話番号から電話がかかってきた。

深く考えずに電話を受けると、それは哲也の友人の小林という男だった。たしか哲也の学生時代の後輩だったはずだ。結婚式で一度、そのあとに何かの集まりで会ったことがあったような覚えがあるが、綾乃あてに電話がかかってきたことなど一度もなかった。
小林は、少しあせっているような話し方で、哲也のことで相談があるのでお会いしたいと言った。

指定されたビジネス街の喫茶店の席で、綾乃は小林に会った。ゆったりとした席間の店で、客はまばらだった。静かなピアノバラードがかかっているが、音量はうるさくない程度に大きめだった。きっと、客同士の会話が、あからさまに他へ聞こえないように配慮されているのだろうと綾乃は考えた。

小林は手にした封筒をテーブルの脇においた。ふたりが頼んだコーヒーが届くまで、小林は無沙汰をわび、母へのお悔やみを述べていたが、コーヒーが届いたところで、深々と頭を下げた。

「実は、霧島先輩から、奥様へお話するようにお願いされてまいりました。どう切り出そうか考えていたのですが、思い切って結論からお話させていただきます。実は、先輩は、投資の件で負債をかかえてしまい、このままでは奥様にもご迷惑がかかるということで、奥様と離縁した方がよいとお考えでございます」

小林の話は続いた。綾乃の夫の哲也は、投資で多額の借金を抱えた。なぜそうなったのかを小林は説明したが、綾乃の頭にはさっぱり入ってこなかった。おそらく自己破産することになるだろう。綾乃が納得するのであれば、今すぐに離婚した方がよいという話だった。

「もちろん、こんな話を突然、他人から聞かされて、信じることも納得することもできないと思います。たとえば、ほかの理由で離婚したいと先輩が考えていて、このような嘘をついているのではと疑われているかもしれません。でも僕は…」小林はそこで少し言葉を切り、涙をこらえるような表情でつづけた。「いえ、私は、これが嘘ならば、どれだけよいかと思います。私は若いころに粋がって始めた商売で、多額の借金を抱えて、先輩に助けていただいたことがあるのです。ですから、今度は私ができる限り先輩のお力になりたいと思っているのです。それに…」

続く言葉は、綾乃には驚くものだった。「先輩は、留守がちで、奥様には何もできなかったと言われていましたが、奥様のことをとても大切に考えていらっしゃるのです。だからこそ、ここで離婚することで、奥様へ金銭的なご迷惑をかけずにすむのではないかと思っておられます。実は、このようなことを想定して、少しでも奥様のためになればと、以前からゴールドをご購入されていらっしゃいました。私がそれをお預かりいたしております。何かあった時には、それを現金化して、奥様にお渡しくださいということでした」

小林の話が終わったあと、綾乃は何を言っていいのかわからず、黙ったままだった。無意識のうちに、コーヒーカップをとり、一口飲んだが、コーヒーは冷めていて、味もまったくわからなかった。
「あの…」綾乃はようやく声を出した。かすれた声だったので、小さく咳払いをして続けた。「夫は、お金に、困っているのですよね。あの、私は、母が亡くなったあと、父の具合がよくないので、実家に帰ろうと考えていたんです。実家に帰れば、生活していくために困ることはないので…」

そのとき、綾乃は、夫は感情表現が苦手で、自分とは価値観が違うことですれ違う日々だったが、確かに自分のことを愛していたに違いないと思い、涙があふれてきた。「ですので、私のことは心配しないように、哲也さんに伝えてください。私のために用意していたという財産のことは、哲也さんのお役にたてればと思います」

小林も涙ぐんでいた。これからのいろいろな手続きについては自分が責任をもつので、何でも相談してほしいと言った。綾乃は涙をぬぐいながら、哲也はきっと、何もかもうまく切り抜けるだろうと思った。意思の強い人なのだ。その強さで彼は、貧しさから抜け出すために一途に勉強し、商売を広げてきた。こんな形で彼の、自分への愛情を確認できたことが悲しくはあったが、ほっとする気持ちもあった。あの高い塔に閉じ込められていた日々が終わったのだ。終わらないと思っていた、あの空虚な日々が。


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