霧島哲也は、自宅ではいつもジャージを着ている。黒のジャージは着古してくたびれているが、自宅にいる時の服にお金をかけるのはバカらしいと考えているのだ。妻の綾乃が新しい部屋着を用意した時には、眉をひそめてこう言った。「買ってこいなんて言ってないだろ。勿体ないから返品してこいよ」そう高くもない服を、返品と言われて綾乃は驚き、2度と服のことを言わないことにした。

しかし彼は、外出時には、特にお金をかけた服装をする。ブランド店の店員に褒めそやされて買ったその服や腕時計は、品があるとは言えないが、少なくとも見る人を威圧する効果のある値段の物だろう。彼は綾乃にも多額の小遣いを与えており、その分、外に出るときはいつも金をかけろと言う。

綾乃は、ブランド服よりも、オーダーで仕立てた服で育ったので、ブランドの服を買うのを躊躇し、いつもシックで飾り気のない服をあつらえてもらうが、「もっとさ、派手に、バーンとできないの?」と哲也から言われることになる。

「それにお前、も少し胸、大きくしてもらえよ。俺、こないだ銀座で美容整形の医者と知り合ってさ、そこに頼めば安くやってくれると思うんだよね」そう言われた時は、綾乃はゾッとして、大きく目を見張り、思わず涙をこぼすところだった。

哲也は若い頃に勤めていた商社を辞めた後、輸入雑貨を扱う仕事を始め、いまでは車から家具まで様々なものを扱い、不動産経営や投資もしており、いつも忙しくしている。投資の一つだと言って、今住んでいるタワーマンションを購入したとき、まさか自分たちが住むことになるとは綾乃は思わなかった。綾乃は静かな住宅街で育ったので、結婚したらいつか自分たちも戸建に住むのだと、何となくイメージしており、まさかこんなに風の強い、殺伐とした街の、人工的すぎる建物で暮らしていくとは考えていなかった。

哲也は、今日は珍しく休みだとみえ、朝いつまでも起きてこないと思ったら、ボサボサの髪にジャージ姿で、のそりとリビングに現れた。
とうの昔に別の部屋で寝むことにしているので、哲也が昨夜何時に帰宅したのか綾乃にはわからない。しかしそろそろ昼が近いし、とにかく何か食事を用意しようと、キッチンで冷蔵庫を開ける綾乃に、あくびをしながら哲也は言った。「メシならデリバリーで唐揚げとってくんない?」

哲也は、ジャンクフードが大好きだ。いつも外で高いものばかりを食べているとチープな味が恋しくなるのだと彼は言うが、元々、ジャンクフードのように濃い味のものが好きなのだろうと綾乃は考える。

デリバリーの唐揚げが届き、綾乃は、簡単に仕上げたサラダと一緒にテーブルにそれを並べた。以前、デリバリーの食品を皿に盛り付けて出したところ、哲也に眉をひそめられたことがあるので、届いた使い捨て容器のまま並べた。皿に盛り付けなおすのは、時間も無駄だし、皿を洗う水や電気も無駄じゃないかというのが哲也の考え方だった。

哲也が「お前も食えよ」と言うので、食欲はなかったが、綾乃は唐揚げをひとつ皿にとって口にした。甘辛いタレがかかり、冷めかけて脂濃い鶏肉は、とても美味しいと思えなかったが、その味で綾乃は悠希のことを思い出した。

いつか悠希の部屋で、買ってきたお弁当をふたりで食べたことがあった。そうしたいと綾乃が望んだのだった。狭く小さな窓しかない悠希の部屋。部屋のほとんどを占めているシングルベッドに並んで座った。お弁当を2つ置いたらもう何も乗らないほど小さなテーブルを傍において。なんだか可笑しくて、ふたりでクスクス笑いながらお弁当を食べた。思い出すとふいに涙が溢れてきたので、綾乃はそっと立ち上がって、布巾を取りに行くふりをしてキッチンでこっそり涙をぬぐった。

私は冷たい電話をかけ、一方的に悠希を断ち切った。綾乃はそう思い、また涙がこぼれそうになった。悠希が自分を求めれば求めるほど、綾乃は、悠希の未来を不幸にする気がして恐ろしくなったのだった。
新緑が光る5月の、あの美しい思い出の季節が終わり、憂鬱な梅雨も明けたが、綾乃の気持ちはずっと沈んだままだった。地上40階のこの窓から見える、白く霞んだ初夏の眩い光の海も街も、なんだか映画で見る景色のようで実感がなかった。悠希が早く自分のことを忘れて、同じような年頃の女の子と一緒に、楽しい大学生活を送ってくれることだけを毎日祈っていた。

哲也は食事をしながらもスマートフォンの画面をスクロールさせていたが、顔を上げずに「明日から俺しばらく北海道行くからさ、暇ならアンタもどっか行って来なよ」と言った。きっとどこかの若い女の子を旅行に連れて行くのだろう。一度、哲也が若い女の子の肩に手を回して歩いているのを夜の銀座で見かけたことがある。綾乃は自分がショックを受けもしないことにその時驚いた。それどころか、彼の興味が自分以外の女性に向いていることに、なぜか安堵の気持ちがあった。

なぜ彼は私と結婚したのだろう?下を向いてスマートフォンを見ている哲也を見ながら、知人の紹介で知り合った過去の哲也を思い出す。そのころ、哲也は自営業を始めたばかりだった。仕事に一所懸命で、綾乃はひたむきさを好ましく感じた。彼は子供の頃から、母親と2人で質素な暮らしをしていた。ひたすら勉強し、学業で高みに上り詰めることが、将来を明るくすると信じていたと、出会ってすぐに話してくれたことがある。

一方、綾乃の父は、大学でロシア文学の研究をしており、母は代々続く華道の師範だった。両親共が裕福な家に生まれ、世間知らずで地味な、そして苦労知らずの家庭だった。両親は、銀行のATMを使ったことすらなかった。そんな家庭の一人娘として育った綾乃に、哲也は違う世界を感じて、憧れを持っていたのかもしれない。しかし今考えると、哲也が綾乃と結婚したいと思う気持ちは、今まで手に入らなかった高級な腕時計や車を欲しいと思う気持ちと、なんら変わらないのではないかと綾乃は思う。

哲也は、商売が繁盛し、収入が増えれば増えるほど、態度が尊大になり、家を開けるようになった。綾乃にはたくさんの小遣いを与え、それが愛情だと信じているようだった。綾乃は時折、自分が、忘れられたアクセサリーにでもなったような気がした。昔買った高価なアクセサリー。でも今は、身につけるには飽きている。しかし手放すのは惜しいから、クローゼットの奥のアクセサリーケースに仕舞って、たまに扉を開けてチラリと眺め、扉を閉めたらもう忘れてしまう。私はそんなアクセサリーだ。

クローゼットに仕舞われたままの人生が正しいのか間違っているのか、綾乃にはわからなかった。ただこのまま年老いて、いつか何も考えられなくなる日が来るのなら、早くその日が来ればいいのにと思って日々を過ごしていた。そんな時に悠希と出会った。自分の失敗に怯え、でもその失敗を認めて、今できる最善の方法と思って、震えながら自分の携帯電話の番号を書いた紙を渡してくれた悠希。綾乃はその時、ハッとしたのだ。失敗を認めやり直そうとする、その力に。

出かける身支度のため、夫は立ち上がった。その時、綾乃の携帯電話が鳴った。それは、叔母から、綾乃の母親が倒れたことを知らせる電話だった。


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