母親の経営していた画廊を売る契約も終わり、綾乃は少しずつ元気になっていく自分を感じていた。父はあいかわらず沈んでいるので、父の世話はかかせないが、住み慣れた実家で日常の繰り返しをしていることが、綾乃を落ち着かせたのだった。

あのタワーマンションは、夫の後輩の小林がいろいろと世話をやいてくれて、人手に渡ることに決まった。綾乃は、さまざまなものを処分し、自分のものを少しだけ実家に持ち帰った。父親にはまだ離婚の話はしていなかった。書類上は、綾乃はすでに自由の身だったが、離婚の話は、もう少し父が元気になってからあらためて話すつもりだった。自分と哲也の間に子供ができなかったことは結果としてよかったと、綾乃は実感していた。

哲也とは、いちど電話で話をした。申し訳ないと言ったきり、哲也は黙り込んだ。綾乃は、無理に明るい口調で言った。「私、あなたにはほかに好きな人がいて、私にそれを言えないから、お金がないなんて言い訳をしているんだと思うわ。その女性と一緒に、あなたが旅行に行ったりお買い物をしたりしているところを想像して、やきもちをやいてみたりしてるの」哲也は何も言わなかった。かすかに嗚咽が聞こえたようだった。「でもいいわ。私だって新しい人生を楽しむことにするから。だからもう私のことは忘れて、新しい人と楽しく過ごしてくださいね」
返事はなかったが、綾乃は電話を切った。いつかほんとうに、ブランドの服で着飾った哲也が、きらびやかな女性と歩いているところに出くわせばいいのに、と思いながら。

母の経営していた画廊に展示してあった絵は、画廊の飼い主があわせて購入してくれていた。値段のことは綾乃にはわからないので、税理士の叔父がいろいろと交渉してくれた。画廊を購入したのは著名な画家らしく、契約時に一度顔をあわせたが、好感のもてる温厚な人だったので、死んだ母も喜んでいるだろうと綾乃は安堵している。

母の画廊に展示してあった絵に関する書類を、契約時に持ちそびれたため、綾乃はそれを届けるために購入者の画廊に顔を出すことにしていた。電話をして、午後1時に受付に持参すると約束した。経営者は不在のようだが、かまわないだろう。

乗っていたフランス車は、小林に依頼して処分したので、綾乃は電車で出かけることにした。タワーマンションに住み、お金のかかる車に乗り、身を着飾って派手な集まりに同伴させられたりしていた結婚生活は、まるで遠い昔のことのようだった。私は結局、あの贅沢な暮らしにはなじめなかった。車窓に映る自分の姿を見ながら、綾乃はそう考えた。

午後1時に綾乃はその画廊に着き、持参した書類の入った封筒を受付の女性に手渡そうと取り出した。受付の女性は、にこやかに挨拶をした。受付には花がかざってあった。その花を見て、綾乃は一瞬、時がとまったかのように息をとめた。モネのひまわりだった。

受付の女性がいぶかしそうに首をかしげたので、綾乃は慌てて書類の入った封筒を渡した。「きれいな花ですね」とっさに綾乃はそう言った。受付の女性は笑顔で答えた。

「ええ。モネのひまわりという花だそうです。さきほど、お客様にいただきました」

綾乃は、思わず、そのやわらかな花弁にそっと手を触れた。明るいレモンイエローの花は、まるで自分に笑顔を向けているようだった。


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