モネのひまわり 1


進学も就職も、全てを捨てて僕は絵を描くことを決めた。それが、僕のたったひとつの彼女への贈り物。彼女が閉じ込められているその塔をスケッチするために、僕は今日も街に出かける。聳え立つ塔はどこにいても探すことができる。雑踏の片隅で、今日も僕はスケッチブックを広げる。

人が見ればそれはただの街の景色。中央に配置されたタワーマンション。でも僕が描いているのは、その塔に閉じ込められた彼女への想い。2人だけで過ごした短い時間の思い出なんだ。

先輩の紹介でアルバイトを始めた表参道のカフェで、僕は、グラスを置く手を滑らせ、彼女のスカートにランチワインをこぼしてしまった。しなやかな上質のベージュのタイトスカートに染み込む濃い赤。それが全ての始まりだった。

拭いても残るその赤に、慌てる僕。「大丈夫よ、裾のところ、ほんの少しだから」と彼女はにっこりと微笑んでくれた。同席の彼女の友人は眉をしかめたが、謝るために駆け寄ってきた店長にも、彼女は「気にしないで。それよりもお料理を持ってきてくださる?」と柔らかな声で言った。

失敗したショックで動悸が止まらない僕は「あの、僕、弁償します!」と震える声で、自分の携帯電話の番号を書いた紙を、テーブルで会計を終わらせた彼女に渡したのだ。

彼女の友人は、そこで大きな声で笑った。「あのね、そのスカート、きっとボクの半年分の小遣いより高いわよ?」

彼女は顔を曇らせて、友人に言った。「そんなことないと思うわ」そして、僕に微笑みかけた。「そうね、弁償していただくわ。あとから連絡します」

それがたとえ払えないほどの金額でも、僕は一生かけても支払おうと、その時に強く思った。

彼女からかかってきた電話に、緊張して応える僕。彼女は柔らかな声で言った。

「スカートは、クリーニングで綺麗になったわ。クリーニング代の代わりに、1日私のお買い物につきあってくださらないかしら」

2シーターのフランス車で出かけた横浜。食べたことのないほど美味しい中華料理。こんな店が存在するなんて知らなかった、オーダーメイドの洋服店。緊張が解けない僕に、彼女はいつも微笑みかけてくれた。そして薄暮の街を歩きながら、彼女は少しだけ眉をひそめて、小さな声で話し始めた。不仲な夫との渇いた日々のことを。

私は愚かなお嬢さんだったの。ただいつまでも美しいものに囲まれていれば幸せなのだと思っていた。気がついた時には、私の心は塔に閉じ込められていたわ。

そして僕は彼女の虜になった。短い逢瀬を重ねるうちに、僕はきっと彼女を幸せにしたいと強く決意するようになった。築34年1ルーム7平米弱の僕の狭い部屋に来た時だって、彼女は僕を蔑むような振る舞いをしなかった。そして帰り際には必ず、若い人の時間を奪ってごめんなさいと、少し辛そうな顔になった。僕は経済力のない自分が不甲斐なく、世界が灰色に見えるようになった。

僕は街へ出て、彼女の住む塔を探した。タワーマンション。そびえ立つその塔は、僕と彼女の暮らしの違いの象徴。貧富の差がない国はないだろう。貧しい者が富に憧れるのは当たり前のことだ。経済力、それは自由。今まで僕は、漠然とそう考えていた。けれど彼女に出会って変わった。誰もが羨む部屋に住んでいても、空虚な幸せしか感じられないのは、むしろどれだけ不幸なことか。

ある日突然、彼女は電話で「さようなら。ありがとう」とかすれる小さな声で言った。待って!僕が叫んだ時にはすでに電話は切れていた。彼女が幸せなら、僕が遊ばれていたのだとしても構わない。けれどその最後の声に含められたニュアンスは、彼女の不幸を感じさせた。

追いかけることも、会いに行くことも考えられなかった。僕が学校を卒業し、就職して経済力をつけたら、彼女を幸せにすることができるだろうか?逡巡し、僕が結論を得たのは、絵を描くことだった。彼女が欲しいのはお金ではない。僕が彼女に贈れるものは、本当の愛だけだ。僕の気持ちを本当だと証明するために、僕は全てを捨てて絵を描こう。雨の日も風の日も、彼女の住む塔の絵を描こう。僕がいつか道端で倒れても、そしてそれを彼女が知ることがなくてもかまわない。これが、僕にできる本当の愛の証明だから。

そして僕は今日も、スケッチブックを持って街へ出かける。タワーマンションのそびえる、灰色をした街へ。


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