発展と安寧

ぼくの中で「発展する」というのは結構重要な事項だ。

これまでできなかったことができるようになる、とか。なかなか越えられなかったハードルを越えることができた、とか。何か新しいものを生み出した、とか。

達成する、とは少し違って、達成するまでのプロセスを含めた、そう「発展」することが、大事だ。

例えば、山に登るのに、ロープウェイがあるけれどあえて自分自身の足で登る、みたいな。そうすると、登っている途中で心和む風景に出会えたりとか、頂上に着いたときの達成感とか、それから運動することで筋肉や肺活量が強化されるとか。

その「発展すること」こそが大事だ。

と思っていた。

確かに、それはぼくという人間の生きるなかで大事なことだ。

他のことは「発展」し続ける先に手にするもので、それがなくば生きている意味がない、とかそんな感じだった。

ぼくのなかで大切なことはもう一つあって、それが安寧だ。

でも、その安寧は常に発展をしている状態でなければ得ても意味がないと思っていた。もし安寧だけで発展がなかったらその人生は限りなくつまらないものになってしまう。せっかく生まれて生きているのだから、なにか社会や世界に爪痕を残したい、そして結果をもとに安寧を得るのだ、と思っていた。

でも、「発展」するのは結構しんどい。「発展し続ける」のならなおさらだ。自分で山を登れば疲れる、調子が悪い時はなおさらだ。若い時はひたすら山登っていればいいくらい健康で体力があるからいいけれど、40にも近くなってくると毎日毎日元気でちょっと調子が悪くなっても寝れば次の日には回復している、なんてことはない。

「発展」の先に「安寧」が置いてあるので、「安寧」を得るには「発展」を得ることが大前提としてあって、つまりはずっとずっと手を伸ばし続けなければ「安寧」が得られない状態になっていた。

しかし、ふと改めて見てみると、「ずっと手を伸ばし続けなければ得ることができないのはそもそも「安寧」とは呼べないのでは??」ということを思うようになった。

「安寧」が土台にあって、ただ在るだけでよくて。常にそこで休息なり、ほっと一息つけるようになったり、疲れた時に安全が保たれるところであったり。人は気力を養える場所があるからこそ進み続けられるんだよなあ、と、やっとそんなことに気づいた。

発展の先に安寧、ではなく、安寧を土台に発展、にした方が、結果的に発展を得続けることができるのではなかろうか。

少なくとも、今のぼくにはそっちの方があっている。

皆さまのご厚意が宇宙開発の促進につながることはたぶんないでしょうが、私の記事作成意欲促進に一助をいただけますと幸いでございます。