マルクス・ガブリエル「殺し合う敵と対話するには、殺す意図を持たずに受容するしかない」

哲学者、マルクス・ガブリエルの「わかりあえない他者と生きる」の一部を再編した原稿を読んだ。彼の著書は以前にも読んでいたし、テレビでも彼の意見を聞く機会が何度かあり、とても優れた若手の学者だという認識だったが、この最新の記事では、その見方に揺らぎが出てきた部分がある。そのへんのことを少し書いてみたい。

確かに現代社会では、SNSの発達などもあって、理性的に冷静に話し合う土壌が失われつつあるのかと思えることも増えてきた。とくにSNSでは一方通行だったり、相手の顔が見えないことや自らも名乗らずに語れるということ、また手持ちのスマートフォンなどで数分でも時間があれば書き込めてしまうことなどあり、相手の意見を聞かなかったり、一方的に自分の考えを押しつけたり、あるいは最初から極端な意見を発してたんに炎上を楽しんでいるだけなのではないか、という発言も少なからず見られるようになった。

とはいえ、だからこそ、冷静に話し合うことは必要だし、話し合うことによってのみ、多くの問題の解決が図られるという考えには、わたしも賛成だ。さらにいえば、そういうことによって相互不信が払拭されたり、相互理解が深まったりしないのであれば、それはもう人間社会の存亡の危機ともいえる事態になってしまう。

さて本題であるが、この原稿のなかでガブリエルはタリバーン(タリバンと翻訳では書かれているが、少し原音に近いタリバーンとわたしは書く)との話し合いについて書いている。そこでは、タリバーンとの対話はおそらく無いだろうが、出来るならしてみたい。でもアフガニスタンには行かない、なぜなら(あまりにも危険だから)と書いている。このへんから、わたしは少し首をかしげながら読んでいたが、ガブリエルはタリバーンの上層部の人間(代表団、哲学者、宗教指導者など)と会って、女性の教育について話し合えるなら(会ってみたい)。そして、彼らが(女性教育で)していることは間違いだと説得を試みたいという。

彼は、敵とは殺す意図を持たずに受容するしかない、と述べているにも係わらず、いきなり受容を拒否しているとしか思えない考えを表明している。「彼らの考えは間違っているという確信がありますが、話し合いには喜んで参加します」とも書いている。なぜ間違っているとの確信を持てるのか、わたしには疑問だが、彼はそう書いていて、さらに彼らの考えを聞きたいと書いている。そこから想定される答についても、「予想通り理由が無かったり云々」と続き、タリバーンは何の考えもなしに、女性を差別、抑圧している。そして、そんな彼らをガブリエルは「説得したい」というのだ。

その後に書かれていることは、大枠ではわたしも賛成することが出来る内容であるが、いずれにしてもこのタリバーンに対する彼のスタンスからわかることは、自らの属する社会の常識と相容れない異なる考え、文化を受け入れる気は無いということだと、わたしには取れる。つまり、話し合いは歓迎するが、相手が間違っているので、それに対しては説得したいということであり、これはそもそも議論を始める前提条件としては、少しズレているのではないかと思わざるを得ない。

わたし自身は、アフガニスタンには行ったことがないが、イスラーム世界には度々足を運んできたし、タリバーンではないが、さまざまなイスラーム組織の人々、その指導者らと対話を重ねてきた。その知見から言っても、タリバーンの女性に対する政策の是非を論じることは、現段階では時期尚早ではないかと思うのだ。

まず、タリバーンは女性に教育させないとは言っていない。ただ、同じ教室で男性と机を並べての勉学はさせない(それはイスラームや彼らの文化にそぐわないということ)と言っているだけである。女性たちは欧米的な学校には通っていないかもしれないが、家庭や寺子屋的なところでの勉強はしているのだ。欧米的なシステム、価値観を押しつけようとしたり、それをしないと民主的で無い。よって、人道支援やタリバーン政府の承認もしない、ということはおかしいことではないか。多様性を認め、異なる文化を認めてこその信頼だったり、国家間の関係だったりするのだから、タリバーンの統治がいかに奇妙にみえても、ニューヨークやロンドンの常識を押しつけるのはそもそも間違いであろう。

もう一つ気になったのは、ガブリエルの書き方が、上から目線であり、間違っている相手に教えてやろうという蔑視感が見え隠れしていることだ。当人は意識していないのかもしれないが、明らかに自分たちが正しい、自分たちが民主社会を代表しているというニュアンスがにじみ出ていて、それは不快なものに感じられる。

マルクス・ガブリエルという人間は、洞察力に長けた人物だと思っていた。そしてもし彼がほんとうにそういう人間であれば、ステレオタイプな報道を盲信するのではなく、アフガニスタンで起きていることは何か。を、より注意深く見てみる、理解するべきであろう。

ほんとうの意味での対話。それは、対等な者ものであるべきで、あらゆる先入観や、価値の押しつけ、ど文化の優劣等の考えを捨てて、自分の意見を言う。相手の意見を聞く。そして理解するように努めることが肝要なのではないか。もしそういうことが可能でで、そのような対話が続けられるのであれば、それは真の理解や相互受容、平和的共存へと繋がって行く。

わたしたちは、そういう対話を行う機会をつくり、継続していくことを目指さなければならないと思う。そして、それが普通に行われる世界になったときに、真の平和な世界が、少し近づいてくるのでははないだろうか。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

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