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幻影は美しいが、ドラッグ。我々には塩が必要だ。

前の話で、『もし、写真を使うなら”明らかなる偽”としての像を生み出すことに利用する他ないのだろう。』、『本当に「在る」というものさえ脳が見せている幻影なのかもしれない。』という話を書いた。


「在る」ものでさえ幻影、ということを今ここで結論づけることは控えておこうと思うが、
少なくとも写真というものに関しては幻影であると言い切っておきたい。


現実は生き辛い。本当に苦しい。何もしないと心が狭くなり、真っ暗になりそうで怖くなる。
だが、私たちは幸い自分たちの力で自分たちに幻影を見せることができる。
その一つが写真だと思うのだ。


例えば天体写真。
とてもきれいで美しいと感じる。行ってみたいとさえ思うかもしれない。
でも、写っている場所は今あるところなのかどうかもわからないし、
あったとしてもそこは到底人間が住めるような場所ではなく、あっさりと死んでしまうだろう。
また、例えば家族写真。
とても仲睦まじい姿がそこには写っている。みんな一人ひとりが幸せそうである。
でも、もしかしたら普段は喧嘩ばかりの家族かもしれない。お金がなく、生きるのも精一杯の家族かもしれない。


写真は一瞬をとらえる。逆を言えば、そのある一瞬だけをとらえればいい。
映像でも根本は一緒だ。少し時間軸が変わるだけで、基本的には瞬間を捉えればいい。

一瞬、美しく見える瞬間だけを、我々の生きる何十年という長い時間軸の中から抜き取れば、それはあたかもそうであったかのように映るわけである。
だから写真は幻影なのだ。

今日感じたことは、この写真という存在は幻影であるとともに、美しい存在であるということである。
もしくは美しくあっていい、ということである。


現実は生き辛い。本当に苦しい。何もしないと心が狭くなり、真っ暗になりそうで怖くなる。
だからこそ、幻影は在るべきであるし、美しくあっていいのだと思う。
この生き辛く、苦しいと感じるこの世界を直視することも大切だが、幻影を通して、ある意味曲解的な試みをすることもあっていいのだと思う。
幻影はある種の「拠りどころ」ではないか、ということである。

私は神や仏の存在を否定するつもりは満更ないが、宗教も幻影であると考えている。
幻影であり、ロールモデルであり、心の東屋であるとも言えるだろう。
この世を離れた視点、立場から受ける教えというのは、幻影的ロールモデルなもので、この生き辛く苦しい人生という酷道を歩く私たちが、ほっと落ち着ける東屋のように我々を人生の所々で迎え入れてくれる。

宗教から写真に話を戻すが、
写真は幻影で美しいと述べた。
しかし、美しいその幻影はドラッグでもあると思う。
美しい写真ばかり撮ったり、見たりしていると、幻影に生きる”おかしなヤツ”になる。
だから時には、傷口に思いっきし塩を擦り込むように、生き辛く、苦しいこの現実を見た方がいい時もある。


宗教は幻影ではあるが、上記の点を見逃してはない。そこが、私が言うのもおこがましすぎるが、素晴らしい。
幻影的ロールモデルな存在(神や仏など、信仰の対象となるもの)を示しながらも、我々自分自身は罪深く、もしくは煩悩にまみれた存在でありそれを告白したり、もしくは精進することが求められたりと、我々の持つ傷にどんどんと塩を擦り込んでいく。

不思議なもので、
痒くて掻いてできた傷がある状態で海に入る状況が続くと、たちまち傷が治っていったという経験がある。
実は、まったく不思議な出来事ではない。
海に入ると、当然掻いたところは滲みて痛む。海から上がっても痛い。「痒かったところ」は、脳によって「痛いところ」と書き換えられる。すると、掻かないようになり、次第に傷は治り、海水に入っても痛く感じなくなるのだ。
しかし、海に入らないようになると、痒くて掻いたところは痒いまま、傷はひどくなっていく。痛みがないと、なかなか治らないのだ。
宗教に触れることは、これとほぼ同義に私は思う。


見たくないものを見て、聞きたくないものを聞くということと、見たいように見て、聞きたいように聞くということはどちらも必要なんだと。
そして、「塩を擦り込まれる」ことは、決して我々の心を折ろうと思ってのことではなく、むしろ傷を治すためにあるのだと思うことからしか、世界は良くなっていかないんだと思う。


写真で「塩」といえば、銀塩フィルムがまっさきに思い浮かべられる。
この話は「早くフィルム写真をまた撮るのだ」という神の啓示なのかもしれない。
いいところに落ち着いたところで、この話は締めとしておこう。

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