写真家の使命はvisualを用いたpass on

自分の好きな映画に「Lucy」というものがある。
スカーレット・ヨハンソン演じる主人公の女性とモーガン・フリーマン演じる人類学者の男性の、人類の可能性と本質に問を投げかける内容。主人公のルーシーは訳あってコリアンマフィアに捕らえられ、眠らされている間に腹部に合成麻薬のパッケージを入れられてしまい、不本意ながら運び屋となってしまう。そして、彼女は他の場所に移送され、そこのマフィアに引き渡される。そこでアフィアを挑発した際に、腹部に蹴りを入れられてしまう。その影響で腹部に埋め込まれていた合成麻薬のパッケージが破れてしまい、それが体内に溶け出してしまうのだが、実はこの合成麻薬、モデルになっている成分は妊娠中に赤ちゃんのために生み出される成分で、この麻薬が主人公の体に吸収されたことにより、彼女は脳の活性化が赤ちゃんの時以来凄まじいスピードで進んでいく。人類学者の男性の仮説によると、普通の人間は脳のポテンシャルの10-20%ほどしか活かせていない(使えない)らしい。だが、合成麻薬を吸収してしまった主人公の体、すなわちは脳は人間の脳のポテンシャルを30%、40%と開放していく。主人公は、脳の発達や人類の誕生に詳しい研究者の男性(モーガン・フリーマン)とコンタクトをとり、そこで「生命の唯一の目的はpass on(伝える)ということだ」と教えられる。

これを聞いた時に、生態学でいう「選択」という言葉を思い出した。一般的には「淘汰」という言葉が用いられているこの選択という概念は、
環境が変化した際、従来の環境に適応していた個体は弱くなり数を減らして、逆に遺伝子変異等で幸運にも新しい環境にたまたま適応できた個体が生き残った、という話である。この考え方で大事なのは、人間のように思考をするというプロセスを含んでないことである。つまり、各個体は与えられたDNA(もしくはRNA)を一生持ち続け、懸命に生きる。しかし、懸命に生きた結果、羽が新しい環境下で保護色(擬態に適した色)でなかった場合は、捕食者の餌食になることが多く、またある個体は懸命に生きた結果、新しい環境下での擬態に適した羽の色を持っていたため捕食されにくく、子孫を多く残せた、という極めて単純な、かつ個でなく種で見た時の環境適応/不適応を言葉にしている点である。
人間はついつい考えてしまう。そして、一人ひとりが思考し、より長く生き残ろうとしたり、より多くの環境適応した”強い”子孫を作ろうとする。人間界での強者、弱者はDNAベースと言うより、個人の思考や努力など遺伝子以外の要素で持って決まることもしばしばだ。
そういうこともあり、なかなか私たち一般人が個の感情や思考、努力などを脇に置き、一人ひとりを人類の中の1個体1個体とみながら、種としての人類(ホモサピエンス)と捉えて話すことはそんなに多くない。
この状況は、写真家の間での話でも同様だろう。どの写真家がどういう写真をしただとか、こんな写真の新しい技法が生まれただとか、個別具体で”個人的”な話は多いけれども、一人ひとりの写真家もしくは写真に携わっている者が、自分たちをまるで働きアリのように、「写真家は現代を切り取り、そしてその写真を後世にただただ残していくことをする者たち」と話すことはほぼない。常に自分はどんな新しい写真を撮ろうかや他人と比べどれほど素晴らしい写真を自分が撮るかのような短い時間軸のなかでの話しかしていない気がするのだ。

つまり何が言いたかったかというと、私たち写真家も「伝える、つなげる」ということが大切であり、それこそが写真家の使命であると感じている。そして、一人の写真家として、働きアリのように愚直にこの世界を切り取り、記録し、次に繋げる、という思考回路をもう少し持っていくべきかと思う。

「自分がすごい写真を撮ってやる!」というような個人主義的思想から、「自分はこの世の中を記録していくもののたった1駒だ」という考えに転換することで見えてくる違う世界があるのでは、とぼやっと思った夜であった。

そういえば、写真家でもスナップを撮る人は、意外と数十年数百年先に面白い写真と思われたり、貴重な写真と思われることを考えて撮っている人が多そう。


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