正月気分、はもうやめた。
つい先日の年末年始は、年末年始“感”がなかった。
もしかしたら、そういう“感”を出さないように、感じないようにしていたのかもしれない。
人は何かをきっかけに心を新たにしたり、悔い改めたり、そんな「節目、変わり目」が好きな気がする。大晦日になると年越し蕎麦を食べその後の長寿を願ったり、元旦になれば初詣に行き健康や活躍を祈願する。テレビも年末年始は3時間4時間の特番を毎日のように流し、年末年始“感”を出している。
でもだ、このような節目は必要ではないんじゃないかとも思う。元旦に祈願するのであればそれからも継続して何かあれば祈願をしたり、またおみくじを引いても良いのではないかと思う。普段は寺にも神社にも行っていないのに年始になるとこぞっていくというのはいささか滑稽であり、節目をイベントとしか捉えていないように感じる。これ即ち、イベントとして一年の健康や活躍を願い、またおみくじを引くというのは、その時ばかりの思い立ち、衝動、短絡的行動に他ならないと思うのである。
だから、今回の話にはこのタイトルをつけた。「正月気分、はもうやめた」。
なんなら正月気分を一年中もってみたらどうなのか、とさえ思う。正月になる前からお寺や神社に行き、少しでも祈祷や法話を受けてみれば、正月の初詣も少しばかりは意味のある詣になるだろう。
去年の12月は岡倉天心の『茶の本』を読んでいた。いかに日本が素晴らしい茶の湯という文化を持っているのかについて切々と語られていた。また、日本の文化が西洋のそれとは別軸の素晴らしさを持っているという話もあった。
日本は元来、その中でも終戦以後、米国をはじめとする欧米の影響を大きく受けてきたことで、私たちは西洋のさまざまな基準を生活の中に取り入れてきた。政治然り、被服然り、言葉然り。長さや重さの単位や、文化芸術の価値基準も欧米的基準をしっかりと利用している。
しかし、それと引き換えに失ったものは多いと思う。yes noはっきりすることとは反対に曖昧さをわざと残すということは、政治家が悪いことをした時にはっきりと答えたくない時くらいしか耳にしない。曖昧をポジティブな意味で使ったり、捉えたりする人はかなり少数派だと感じる。
また、デザインに於いてもシンプルでスタイリッシュなものが好まれたり、食べ物でもインパクト重視の濃いめ、辛め、強め、重めの食べ物が溢れているが、日本古来の設計(デザインという横文字は使わないでおこう)や食べ物に多く触れるという人は少ない気がする。
岡倉天心の著書を読み感じたことは、つまりこうである。日本及び東洋の文化を西洋の文化とを(同軸で)比べるということ自体がおかしいということ。そして、仮に比較したとしても、素晴らしいものを既に昔からもっている、ということである。
建築にしても、木造(東洋的)より石や鉄筋鉄骨とコンクリート(西洋的)の方が“優れている”といわれたりもあるだろうが、地震が多い国で法隆寺の五重塔が千年を超えても残っているという点で(日本においては)耐久性で優れているということもいえる上、朽ちていくことさえも美しさと捉えられる心をもっている点で、思想的にも西洋よりずっと奥深く“優れている”といえよう。
千利休が、弟子の掃除した露地(茶室までの道)にわざと木を揺らし落ち葉を散らせたことからも、日本の美しさとはピカピカやツルツルという単純で浅い西洋的美しさと一線を画していると感じざるを得ない。
しかし、私含め今を生きる私たちは、その感覚を忘れかけ、ほぼ忘れている。一度口を開くと西洋と比較した日本しか語らず、自分達のもつ文化や価値基準の上で話せないことが多い。なので、正月だけ日本人を思い出したように、日本人風なことをするのはもうやめにしたい、ということである。
少しずつ自国の持つ秘められた価値基準の門をたたき、少しずつ自分の奥底に眠る感覚と再会を果たし、日本人として生まれ変わる。そんなことができてくれば、俗世からの解脱、創造性の解放、自然との調和・共生も夢ではないだろう。
最近また盛り上がりを見せているEV化や、少し前からのSDGsの活動も否定はしないが、答えは既に日本人の中にあるということを少しは感じた方がいいと思っている。西洋的価値基準に踊らされている日本が最高に”ダサく“感じる正月4日目であった。
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