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私の読書遍歴(3)『レイテ戦記』

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前回はこちら:

前回の終わりでお詫びした計画変更により、この第3回は、大岡昇平『レイテ戦記』に絞ってお話しします。

 『レイテ戦記』は、日米双方で88,000人の戦死者を出した,太平洋戦線最大の激戦地のひとつレイテ島での地上戦闘とそれに伴う海空の戦いを再現した文庫にして全4巻、1,800ぺ―ジに及ぶ大作です。(戦死者数の内訳は、日本側が約84,000人、アメリカ側が約4,000人です。)
 大学時代に手に取ったときは全3巻だったのですが、その後に増補を重ねて、現在では全4巻となっています。ただし、本体の増補だけでなく、大岡の講演、大岡と他の作家との対談、文庫本初版に解説を寄せたのとは別の作家・研究者による解説も追加されています。

1.温かい心と冷たい頭脳


 私が『レイテ戦記』から学び、人と組織が絡み合う困難な問題を解決するときに見習いたいと常に思っているのは、大岡昇平の「温かい心と冷たい頭脳」です。

 大岡自身がこの言葉を使っているわけではありません。この言葉は19世紀イギリスの経済学者アルフレッド・マーシャルがケンブリッジ大学経済学部長への就任演説で用いたもので、マーシャル自身は “Cool heads but warm hearts.”  という順で使っています。
  彼が言わんとしたのは、「経済学者には、経済の仕組みを解明するための冷たい頭脳が必要である。しかし、社会で様々な苦難にさらされている人たちには温かい心を向けて欲しい」ということでした。
 
 私は、これを逆順にし but を and に換え「Warm hearts and cool heads = 温かい心と冷たい頭脳」としたものが『レイテ戦記』の執筆に臨んだ大岡の一貫した姿勢だと考えています。

2.温かい心

 
 大岡は、兵士でした。1944年末に35歳で招集され、補充兵として「鉄砲の担ぎ方を教わっただけで」(大岡自身が講演で使った言葉)レイテ島の隣にあるミンドロ島に送られ、そこで心身喪失状態で捕虜となって生還しています。

 『レイテ戦記』冒頭の献辞は、

「死んだ兵士たちに」

です。そして、大岡は、次にようにつづります。

死んだ兵士の霊を慰めるためには、多分遺族の涙もウォーレクイエムも十分ではない。・・・〈中略〉・・・私はこれからレイテ島上の戦闘について、私が事実と判断したものを、出来るだけ詳しく書くつもりである。七十五ミリ野砲の砲声と三八銃の響きを再現したいと思っている。それが戦って死んだ者の霊を慰める唯一のものだと思っている。それが私に出来る唯一つのことだからである。

大岡昇平『レイテ戦記』(中公文庫(中公文庫2021年6月)第一巻P80~81

 ここで大岡は「レイテ島上の戦いについて」としていますが、先に述べましたとおり、彼は、実際には陸・海・空にわたるすべての戦いを網羅しています。
 
 日本が陸海空の総力を挙げて米軍の侵攻を食い止めようとしたのがレイテ島をめぐる攻防戦です。その中で、ある者は銃弾に引き裂かれ、ある者は砲撃でバラバラにされ、ある者は炎で焼かれ、ある者は墜落し、ある者は溺れ、ある者は病に倒れ、そして、死んでいきます

 死んでいった兵士たちを、大岡は「そうであったかもしれない自分」と見ていたのだと、私は思っています。『レイテ戦記』には、次のような一節があります。

われわれは二カ月目には、暗号の特殊訓練を受け始めたので、実弾射撃演習に参加しなかった。私はミンドロ島守備隊の暗号手になったが、セブの三十五軍司令部に配属になったのが四名いた。・・・〈中略〉・・・彼等はみなレイテに来たが、一人しか生還していない

大岡昇平『レイテ戦記』(中公文庫2021年6月)第二巻P211

 自らの分身ともいえる「死んだ兵士たち」の霊を慰めようとする「温かい心」が、大岡にこの大著を書かせたのです。

 大岡の「温かい心」は、不当に弱兵扱いされてきた「死んだ兵士たち」の名誉を回復しようとします。

増援部隊が見た十六師団の兵士は、いずれも脊梁山脈越えに逃げてきた丸腰の敗残兵であったため、弱兵のような先入観が支配的である・・・〈中略〉・・・私が煩雑を恐れず米側の記録を忠実に写したのは、幾分でもその名誉を救い、絶望的な戦いを戦いつつ死んだ兵士の霊を慰めるためである

大岡昇平『レイテ戦記』(中公文庫2021年6月)第一巻P356~357

 大岡の「温かい心」は、また、「生きて虜囚の辱めを受けず」という非人間的な規範のもとで悲惨な死を死ななければならなかった若い兵士たちの痛みに寄り添います。

どこにも行くところはなかった七十までも生きられるかも知れない命が、たった二十五でおしまいになってしまう、という胸がつぶれるような思いに若い兵士は圧倒されていた。雨と火の後から米兵が進んで来、通り過ぎて行った。しかしほかに行くところはないのだから、日本兵はそのまま蛸壺の中に残って、狙撃兵となった。そして結局焼き殺された

大岡昇平『レイテ戦記』(中公文庫2021年6月)第一巻P356~357

 大岡の「温かい心」は、敵であったアメリカ兵にも注がれます。日本軍の前線の両端を迂回し日本軍の内懐深く侵入して戦った二つの米軍部隊(スプラギンズ中佐指揮の一隊と、クリフォード中佐指揮の一隊)について、大岡はこう書きます。

もし私がアメリカ人なら、この二つの迂回部隊の行動について、叙事詩的放浪戦記が書けるのだが、そのために悲惨な死を死なければならなかった同胞がいるため、それが出来ない。

大岡昇平『レイテ戦記』(中公文庫2021年6月)第二巻P102

「出来ない」と言いながら、大岡は、二つの部隊、特にスプラギンズ隊の苦闘に詳しく触れています。

・・・米兵も実に辛い戦いを戦っていたのである。原口山のクリフォード隊は後方にフィリピン人の協力があったから補給も続き、負傷者を後送することも出来たが、本道高地のスプラギンズ隊は、全く孤立していた。常に飢餓に悩まされ、負傷者は陣地内で応急処置を受けただけで、幾日も雨の中に横たわっていた。・・・〈中略〉・・・部隊は[拠点]を出てから六日目で、すでに食料は尽き、二四時間なにも食わずに戦っていた。([ ]内は、原文を楠瀬が簡略化)

大岡昇平『レイテ戦記』(中公文庫2021年6月)第二巻P235~236

 もっとも、日本側では、「常に飢餓に悩まされ、負傷者は陣地内で応急処置を受けただけで幾日も雨の中に横たわり、二四時間なにも食わずに戦う」なんて、まだ序の口で、ほとんどの部隊が、もっとずっと悲惨な状態で戦っていたのです。
 ですから、「日本兵の苦労に比べたら、こんなの苦労のうちに入らない。わざわざ褒めてやる必要はない」と考える人間もいると、私は思うのです。みなさんの職場の先輩や上司に、そういう人って、いませんか?
 
 しかし、大岡は、そうではないアメリカ兵の苦しみには、アメリカ人の基準に沿って寄り添っていく。だから、アメリカ軍の常識ではあり得ない困難な状況で任務を完遂したアメリカ兵たちを称えるのです。
 大岡は、もう一つの迂回部隊を指揮したクリフォード中佐がレイテ島の戦いが終わったあとにミンナダオ島で戦死した(当時、大佐)ことまで、しっかり書き記しています。

3. 冷たい頭脳


 一方で、大岡は、前線の将校の戦闘指揮および軍の組織と作戦については、容赦ないといってよいほど、クールにこれを分析し批判します。なぜなら、それが兵士の生死を分けるからです。
 大岡は、公正な検討と分析を行うため、以下のような資料を徹底して収集し、読み込み、比較検討しています。彼が比較検討に用いた資料一式が「書誌」として、第四巻の末尾に全44ページにわたって列挙されています。

A. 公式記録および同時代の記録
B.第一復員局(厚生省引揚援護局)提出の報告、調書
C.当事者の手記、回想
D.戦記、伝記、研究
E.アメリカの記録

さらに、数少ない生存者へのインタビューも行って情報を得ています。

 これらの情報には、相互の間に多くの矛盾が存在していました。大岡は矛盾した情報同士を突き合わせるうちに見えてくる状況を「事実」として採用しています。大岡が「私が事実と判断したものを、出来るだけ詳しく」と言ったのは、この作業のことだったのです。

3-1.前線の将校の指揮振りを批判する冷たい頭脳


 大岡は、血気にはやり功を焦って非合理な行動を取る前線の将校に対して、容赦がありません。

・・・第二大隊は、三組の斬込み斥侯の派遣の命令を受けた。佐藤大隊の昼間の戦果を聞いて、うずうずしていた大隊長平井道春大尉は、斬込み隊を自分で指揮すると称し、一緒に出かけてしまった。・・・〈中略〉・・・平井大尉がどの方面に進出したかは不明であるが、・・・〈中略〉・・・斬込み隊共々還ってこなかった

大岡昇平『レイテ戦記』(中公文庫2021年6月)第二巻P77~78

・・・五十七聯隊の方でも、勝ちに傲った前線の大隊長(楠瀬注:上記引用中の佐藤大隊の指揮官・佐藤大尉)が、・・・〈中略〉・・・猪突追撃して早くも一個大隊崩壊の結果を招いた。これは若い大隊長の独断で行われた行動である。さらにもう一人の大隊長(上記引用中の平井大尉)が斬込み隊といしょに軽率に前進して戦死した。

大岡昇平『レイテ戦記』(中公文庫2021年6月)第二巻P326

 こうした記述が佐藤大尉、平井大尉のご遺族の目に触れたら、どれほご遺族が傷つくかと私は心配になってしまいます。何もそこまで書かなくてもいいじゃないかと、言いたくなる。

 しかし、次の一節を読むと、大岡の真意が、個人攻撃ではなくそうした個人の行動を産み出した軍の人材育成と組織文化への批判にあることが分かります。佐藤大尉と平井大尉の行動は、そのような人材育成と組織文化の具体例として取り上げられているのです。

大正期に育成された調和型将校は、志那事変以来粗製乱造された大言壮語型将校に引き摺られる傾向にあった。内地においては政治的下克上として現れ、前線では作戦的独断となって、部下を無駄死させた。

大岡昇平『レイテ戦記』(中公文庫2021年6月)第二巻P326

 「内地における政治的下克上」とは、ノモンハンでの惨敗をもたらした若手参謀の独断専行であり、二・二・六事件です。こうした軍内部の組織文化が日本を太平洋戦争に駆り立てたひとつの要因だったことを視野に入れて、大岡は二人の大隊長の行動を批判しているのです。そして、何よりも、大岡の「温かい心」が、部下を無駄死させる指揮の仕方を許せないのです。

 ただし、大岡は、決して、佐藤大尉と平井大尉だけに責めを負わせるようなことはしていません。

しかしこの軽率な大隊長の行動を生んだ真の原因は、前方の敵状の捜索を怠った不備にある。

大岡昇平『レイテ戦記』(中公文庫2021年6月)第二巻P326

 と続けて、戦闘指揮の、より大きな構造の中に2人の行動を位置付けていきます。その中では、師団参謀の不適切な指導ぶりと別の前線部隊の無責任な行動も指摘されています。

 大岡は、一貫して、敗戦の原因をいち個人の行動にではなく、組織全体のシステムの中に探ろうとしています。この視線を貫いた結果、レイテ島での日本軍の敗退の原因は、最終的には明治以来の日本の歴史にまでさかのぼって特定されることになります。
 レイテ島の陸軍を援護するために海軍が総力を挙げて米海軍に挑み、そして敗れたレイテ沖海戦について、大岡は、アメリカ人の歴史学者でレイテ沖海戦に参加したジェーム・A・フィールドjr の言葉を引用して、次のように語っています。

比島沖海戦(楠瀬注:レイテ沖海戦の米側の呼称)で日本艦隊が戦っていたのは、アメリカ艦隊ではなく、日本の歴史であった、とフィールドはいっている。[日本海軍の将官たちが一致して敗因に挙げている基地航空隊の活躍不足は]、フィールドによれば、それはソロモンとマリアナの海戦で、多数の航空機と搭乗員を失った結果である。しかし巨視的に見れば、この観点は多分日本海軍の歴史、あるいは日本史全体にまで拡げなければ十分ではあるまい。([  ]部分は、楠瀬が原文を簡略化)

大岡昇平『レイテ戦記』(中公文庫2021年6月)第一巻P287~288

 この先まで行くと、⦅私の読書履歴⦆の範囲を超えてしまうので(既に十分に超えているのではないかと懸念しているのですが)、ここでとどめておきます。
 大岡が、つねに、より大きな構造、より大きなシステムの中で問題を捉えようとしていたことをお分かりいただければ十分であると考えます。

 また、長くなってしまいました。私の頭の整理がよくできていないからですが、戦記文学という、皆さんがあまり手に取ることがないと思われる分野の作品から私が得たものをお伝えする上で、本の内容に深く立ち入らざるを得ないという面もあります。

 またしても計画変更ですが、今回はここまでとし、次回、第4回も、引き続き『レイテ戦記』について書いていきます。

 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

〈第4回につづく〉


 


 


 

 


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