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自由と不自由と責任と

完全なる自由は自由と認識出来るのだろうか。
不自由の中に自由ありって言葉もあるように…。

ひと口に自由といえば我儘のように聞こゆれども、決して然らず。
自由とは、他人の妨をなさずして我が心のまに事を行うの義なり。
(「自由」とは、他人を邪魔することなく、自分の心のままに事を成し遂げるという意味である。)

中津留別の書 福沢諭吉

我儘や自分勝手に聞こえても自由はそうではない、
ただ人に害を与えるものであればそれは我儘で自由ではない的な事だと思う。

現代訳で後述されているのは
自由の限度を越え、他人に害を及ぼす事で自分の利益を確保しようとする者がいたならば、それは人間社会に害をもたらす存在であるから、天も人も許さないだろう。


害や利益と聞くとピンと来ないかもしれないが、
そもそも他人がどう思うかを考えずに自分の思うままに行動するのは自由ではないという事だと解釈。
また、それらを考えた上でやるべきことをやってるにも関わらずそれを妨げては自由を縛っている。
だから一定のルールがあり、法があり、人類が成り立っている。
もしも、みんながみんな好き勝手に本当に自由だとしたら
平等に自由を得る権利がなくなってしまう。

大人の自由には責任が伴うとよく言うけれど、
きっと責任とはそういう事かなと個人的な解釈。
というか私個人の考えではそう。

義務教育中など、校則があったと思う。
それをちょっと破って誰にも迷惑かけてないじゃんと常套句がある。
はたして本当に?
これだけを言うと自由を求める側が悪いのかと聞こえるけどそうではない。
規模をもっと小さく言えば家庭での一定のルールを守り、
そのうえで遊びたいやこれがしたいと(人道に反しない)あれば
家族もそれを妨げては自由ではない。

子供は大人に自由の責任をとってもらっている。
責任と言えばなんだか厚かましいというかそう聞こえるけれど、
そういう時に謝ったり、ある程度の自由を許しているのは大人だ。
高校あたりで校則が緩かったり、厳しかったり、わかれる。
少し厳しい方に行った子とか
「中学の頃はバカやってたよねー。あの頃が楽しかった。」
みたいなのはきっと高校あたりで社会に出る準備があり、
そこで単位や内申点?みたいな責任が伴う。
義務教育は本人に責任が伴わないから凄く自由に感じるんだと思う。
あの頃は楽しかったの正体は多分コレ。

中学から高校で切り替わる。

自由には責任が伴うはフロイトの言葉由来。
(大半の人間は責任を負う事を恐れているから本当の自由は実のところ欲しがってない。)

これは責任と書けば凄く重く見えるけどなんてことない
自分の未来、後に引き返せない事、そういう責任。
そのうえで相手のことも考え、他人に害をなさず、
自分の意思を伝えたり表現すること。
そしてその意思を否定はしない。そういう自由を尊重したい。

自分の家族、愛する人、好きな人、
一緒にいたいからその責任を少し一緒に負うよっていう愛。
否定はしない尊重。
そう思っている事を汲み取った上で何かするのは自由だ。

と、だいぶ前から自由について考え
なんとなくまとまってきそうという時に
自由にさせるのがいいという言葉に
「その自由を許している側の気持ちはどうなの?」
という疑問が出たっていうお話。


私は不自由を常と思えば不足なしの考えに近いから、
私の意思や行動の主張の自由の為に周囲によくしたりして、
そういうとこでの自由は結構求めているかな~。
相手が自由にするのは結構だけど私の自由は阻害しないでねの意。

一人相撲なのもわかっているけどね。
だからそれが常だと思っている。

お花畑な事を言うと
皆がやさしくあればこんなことにはならないのにと憂いている。
優しさも結局なんだ?という事になるのだけど。

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