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善く生きるということ

20年ほど前に、不思議な体験をした。

それは、大学から家に帰るために、自転車を漕いでいた時に起こった。
左手に吊り下げていたシューズ袋を前輪が巻き込んでロックしてしまい、自転車が一回転した。
私は一本背負いを食らったかの如く、背中から地面に叩きつけられた。
ヘルメットを被っていたこともあり、頭を強打するようなことはなかったのだが、左まぶたの辺りから血が出ていた。
アドレナリンが出ていたのか痛みは感じなかったものの、傷は存外深いように思えた。
暗がりでもはっきりとわかるぐらい、おびただしい量の血が流れ出していたからだ。
家までまだ5kmほど離れていたこともあり、
「どうしようか?帰ろうか?でも、病院に行った方がいいか?いや、でも・・・」
暫くの間、そう頭の中で思いを巡らせながら、天を仰ぎつつ途方に暮れていた。

そんな中、一台の車が私の前方に止まった。
二人の男女が飛び出してきて、
「大丈夫ですか!?」
と私に声をかけながら、駆け寄ってきてくれた。
「大丈夫です、痛くはないので。」
「いや、でも酷い血ですよ!病院近いんで、行きましょう!」
二人は私に有無を言わさず、私を自転車ごと乗っけて、近くの大学病院まで車を走らせたのだった。

夜更け過ぎで、既に22時は回っていたかと記憶しているが、病院では無事に診てもらうことができた。
傷は、単なる擦り傷ではなく、やはり何針かは縫う程度には深かった。
私の鈍感っぷりから考えると、二人がいなかったら、そのまま家に帰っていた可能性が高かった。
そんなわけで、後日傷跡が残ったりしなかったのは、二人のおかげに他ならない。

私を病院に送り届けて下さっただけでも感謝に堪えないのだが、二人のやさしさはそれだけに留まらなかった。
今でも信じられないことだが、あろうことか診療代まで出してくれたのだ。
何も見ず知らずの、たまたま通りがかった時にたまたま血を流していた男に対して!
明らかに学生であることがわかる身なり(背中にでかでかと「東北大学」とプリントされているジャージを着ていた)だったとは言え、流石にそこまでは申し訳ない。
しかし、二人は
「いや、こうするものなので。」
みたいなことを言って、自分たちが払うのが当然だと言わんばかりに私を制して、診療代を支払ってくれたのだった。

その後、二人は私を家まで車で送り届けてくれた。
別れ際、
「後日、連絡を差し上げたいので、せめて連絡先を教えて下さい。」
「いや、そういうじゃないので、いいんです。
ところで、元気になったら、この本を読んでみて下さい。」
二人はそう言って、一冊の本だけを私に渡して、名乗ることもなく去っていってしまったのだった。

後日、その本を読んでみた。
そのテーマは一言で言えば、
「人智を超えた存在がある。その力を信じよう。」
といったようなもので、特定の宗教の勧誘などを意図したものではなかった。
(その本は捨ててはいないとは思いますが、どこに行ったかはわかりません・・・今でも読みたいのに。ホントこういうところだぞ自分・・・!)

あれから随分と年月が流れた今振り返っても、不思議な体験だったと思う。
二人に対する感謝の念を忘れないようにすべきであるのはもちろんだが、それ以上に、あの二人が伝えようとしたメッセージを知りたい。
あの二人は、私に何を伝えたかったのだろうか?

ところで、先日読書をしていた時のこと。
その本には、こう書いてあった。

けがをしたユダヤ人を助けた善きサマリア人についてキリストが何を言ったにせよ〔新約聖書、ルカの福音書の挿話。強盗に襲われた人が道に倒れていたが、通りかかった祭司やレビ人は助けずに通り過ぎる。しかしサマリア人はその人を助け、看護費用まで出す〕、宗教が集団レベルの適応なら、それは 郷党的な 利他主義を生むはずだ。それによって人々は、とりわけ自分の評判が上がる場合には、自分が属する道徳共同体の他のメンバーに対して、過剰なほど寛大で親切になる。

社会はなぜ左と右にわかれるのか――対立を超えるための道徳心理学

私は、この時に初めて、新約聖書にある善きサマリア人のたとえという話を知った。
「人が道に倒れていたが、(中略)しかしサマリア人はその人を助け、看護費用まで出す」

まさに、あの二人ではないか…
そうか、あの二人は善きサマリア人を実践したのではないか?

もちろん、あの二人がキリスト教徒なのかどうかは、今となってはわからないし、聖書に従って行動したのだという確信は持てない。
ただ、善きサマリア人のようなフィクションの世界としか思えないような存在が、実際に私を助けてくれたことは、紛れもない事実なのだ。

私は、数年前から、積極的に寄付を行うようにしている。
昨年は、前から目標としていた、収入の1割以上を寄付に充てることができた。
また、昔から暇ができたら協力するようにしている献血は、今では170回を超えて、40代のうちに200回を突破できそうなペースだ。
一時期は停滞していたけれども、引っ越しなどもあってまたやりやすい環境になったから、何気に嬉しかったりもする。

そして、つい先日。
オレンジ色の封筒が届いた。

骨髄バンクからの封筒

それは骨髄バンクからの封筒だった。
中にはドナー候補になったことの通知や、問診票などが入っていた。
ちなみに、骨髄移植は、ドナーとレシピエントの白血球のHLA型を一致させる必要があるため、赤血球の血液型(一般的な、A,B,AB,O型のあれです)に比べて、一致する確率は低くなる。
兄弟姉妹以外では、数百から数万分の一でしか一致しないとのことらしい。
私はまだ候補の段階なので、実際にドナーになるのかはわからないが、HLA型が一致するだけでも希少なケースなのだろう。
仮にドナーに選ばれて救われるレシピエントがいるのだとすれば、それは私としても、とても本望なことだ。

私みたいな元来利己的な人間の中に、多少なりとも利他の心があるとすれば、それはあの二人からの影響は間違いなくある。
そして、ずっと気になっていたあの二人が伝えたかったメッセージを自分なりに解釈できた今、できる限りの利他の心を持っていたいと改めて感じた次第である。

善く生きるというのは、どういうことなのか。
それに対する明確な答えは、私にはわからないけれども、
「あの二人だったらどうするのだろうか?」
そんなことを時折考えながら、生きていきたいものだな。

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