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『悪は存在しない』は、「すべてが伏線になる」映画だ

て思った。
1シーン1シーンがとても丁寧に描かれていて、どこを切り取っても美しく、目が離せない。あっという間の100分間だった。

いまどきの、伏線をいかにうまく回収するかではない、どこを伏線と捉えるか?と逆に問われたよう読後感。

そんな、他のものとは一線を画したこの映画を、自分なりに言語化してみる。

伏線回収ゲームと化す映画やドラマ

まず、今日の一般的な映画やドラマの現状を自分なりに整理しておくと、今日の映像コンテンツは、いかに伏線をうまく回収するか、がなにより重要な要素になっている。(もちろんすべてではない)
いわゆる映画のキャッチコピーが、「ラスト3分、あなたは絶対に騙される」みたいなやつはその典型だと思う。

それを真っ向から否定するつもりはない。
伏線回収型は、大衆が見たくなるものになる。それはオチで回収された伏線のスッキリ感が、映画の感想としてすぐに「楽しい」になりやすいから。そして一定の面白さが担保されているから、他の人にもオススメがしやすい。だから広がる。
一方、この伏線回収型コンテンツの視聴体験には、大きく2点のネガティブ要素があると思う。

多様な解釈が生まれにくい

伏線をすべてうまく回収してしまうと、そこに多様な解釈の余地が生まれにくくなる。ただ、この伏線回収ゲームの中では伏線の回収し忘れは許されない。つまり、1つの答えしかないコンテンツになってしまう。

伏線回収頼みになることのリスク

もう一つは伏線でしか楽しめなくなってしまう、ということ。
このゲームの中では、1つでも伏線を見逃すと命取りになる。よって鑑賞者は伏線を探すように見てしまい、それは純粋な視聴体験とは言えないだろう。
例えば、海際に落ちる夕日のシーンがあって、「つまりは何かの終わりを暗示しているのかも…!」みたいな勝手で余計な深読みをして、純粋にそれを美しいと思えないのはかわいそうだ。
また、伏線頼みのコンテンツは、もし万が一伏線を見逃したら一環の終わりなので、制作者側としても伏線を見落とさせないようにと猛烈アピールの伏線を張るようになり、伏線のイタチごっこが繰り広げられる。

伏線回収へのアンチテーゼ

「PERFECT DAYS」が示したアンチ伏線回収という贅沢

アカデミー国際長編映画賞にもノミネートされた、ヴィム・ヴェンダースのこの映画は、明らかに伏線回収ゲーム化している映画コンテンツへのアンチテーゼだと思う。

何か伏線らしきものは物語の中に散りばめられているが、それらはまったく回収されない。「PERFECT DAYS」というその大層なタイトルも相まって、鑑賞者によって様々な解釈、イメージを喚起する映画になっている。

この映画に対し賛否さまざまな意見が出ているらしい。これはまさに、伏線をまったく回収しないことによる、鑑賞者のさまざまな解釈が生まれたことを意味するのかもしれない。

ここまで非伏線回収に特化した映画は、一種のアート的な、かつ贅沢な映画とも言えるだろう。

では本題の「悪は存在しない」はどうなのか

ようやく本題に。
これまでかなり大雑把に2パターンの映画を説明した。

  1. ガチガチ伏線回収型の一意の解釈しか与えない映画

  2. まったく伏線を回収しない、多様な解釈を与える映画

1.に関してはエンタメとしての強度はあるが、映像としてもう一度見てみたいとは思わせないものになり、個人的にも正直好みではない。娯楽的にただ消費される映画となる。
2.に関しては、多様な解釈ができるという点で何回も見たくなる映画としての強度を持ち合わせている一方、鑑賞者にすべてを委ねすぎていて、そもそも解釈するに至らない鑑賞者も多いのではないかと思う。
(それ自体を否定しないけど、「なんかいい映画だったね」で終わってしまい、惜しくもその人にとって記憶に残らない映画になる可能性が高い。)

じゃあ「悪は存在しない」はどうなのだろうか。
私の理解では、両方の分類には属さず、しかしその両方の長所が反映され、短所は取り除かれた映画になっている。

(と、ここからはネタバレ的要素も含まれるので、もしまだ映画を見ていない方は読み進めない方がいいかもしれない。)



ともだち


※ここからはネタバレを含む。

では、伏線回収型でも、非伏線回収型でもない「悪は存在しない」はどのような映画なのか。下記に自分なりに定義をしてみる。

「伏線を発散」させる映画

物語に大きなジャンプをつくる

「悪は存在しない」は、「伏線を発散」させる映画だと思った。これは、物語の中でストーリーの大きなジャンプを作ることで、観客をあえて置いてけぼりにするということと言い換えられると思う。
つまり本映画内での、巧が高橋を締め殺すラストシーンだ。

このラストシーンを見て、あーだからか、とか、あーやっぱり、とはならない。つまりは容易に伏線の回収は行わせない。かえって恐らく多くの人が混乱したんじゃないかと思う。しかし、非伏線回収映画とは異なり、オチのような伏線回収のようなラストシーンにはなっており、観客になにか考えさせるきっかけを作っている。

自分なりに「伏線」を紡ぐ

映画を見終えた私は、混乱状態のまま、自宅への帰路や、お風呂の中でなんとなく映画を振り返りながら、なんであそこってあーなってたんだっけ?とか、あのシーンなんか記憶に残ってるなとか、そういえばこれってどういうことだっけ?とか、ぼーっと色々考えていた。すると突然、そのシーンたちが自分の中で点と点で繋ぎ合わされ、自分なりの伏線が回収できた感覚があった。

そしてさらに、他の人の感想が気になってnoteの記事を読んだりポッドキャストを聞いたりして、自分の解釈と答え合わせしてみたら、全く解釈が異なっていたのだ。
いやいやいやなんて思いながら、他の人の解釈を読み(聞き)進めると、それぞれの解釈もとても腑に落ちてしまい、鑑賞者それぞれの記憶に残ったシーンのかけらを紡いで、それぞれの解釈が光り輝いているように感じたのだ。

そして「すべてが伏線になる」

そう、だからこの映画は、タイトルの通り「すべてが伏線になる」映画なのだと思った。鑑賞者それぞれがそれぞれの伏線を紡いで、さまざまな解釈が立ち現れる。これを私なりに「伏線を発散」させる映画と定義した。
そしてそれは、さまざまな鑑賞者による独自の解釈を許容し、その解釈がぶつかりあいもしかするとまた新たな解釈が生まれる。
そんな共話的な映画にもなるのかもしれない。
それは、エンタメ的な強度と、多様な解釈による贅沢が共存する映画だ。

そして最後に、私なりのこの映画の考察を披露してこのテキストを締めくくりたい。

私的「悪は存在しない」考察


ここでお耳汚しに私的な考察を述べてみる。どこを伏線と捉えて考察したのかを簡潔にまとめてみた。

  • 森の木々を見上げながら移動しているシーン

  • 巧の妻(花の母)はなぜいないのか

  • 巧はなぜ「鹿は人に危害を加えない」と何度も彼らに強調したのか

森の木々を見上げながら移動しているシーン

これは冒頭とラストそれぞれで流れるこの映画のある種象徴的なシーンともいえる。ラストシーンは、巧が花を抱えながら歩くときの、花の視点と思われる。ラストは夜なのに対し、冒頭は空が明るい。冒頭とラストは違うシチュエーションなのだろう。では冒頭シーンはなにを描いているのだろうか。

巧の妻(花の母)はなぜいないのか

私の記憶では、巧の妻について言及されるシーンはなかった。ある夜、ピアノの上に置かれた家族3人の写真を巧が物憂げに手に持つシーンが描かれる。個人的な感覚としては、亡くなったと考える。でなければ写真を部屋に残さないんじゃないかと思ったから。そして、ピアノが家に残っていることからも、もともとはいまの家で一緒に暮らしていたのではないか。

巧はなぜ「鹿は人に危害を加えない」と何度も彼らに強調したのか

巧は、高橋と黛に、鹿は絶対に人に危害を加えないと何度も強調した。「手負いの鹿以外は」という条件付きで。そしてラストシーンの、迷子の花を見つけた巧と高橋は、まさに花の目の前に「手負いの鹿」がいることに気づく。助けに行こうとする高橋、それを必死に制止する巧。この冷静な判断、そしてその制止に従わない高橋を絞め殺す、という行動をとったことから、過去同じような経験をしたのではないかと推察した。つまり、手負いの鹿を目の前にした人を、助けに行こうとして鹿を逆撫でした結果、その人を救うことができなかった、という過去を。

巧は花を守るために、高橋を制止し、そして殺した。

以上の伏線から、私の考察は下記の通りだ。

  • 巧の妻は、むかし鹿に殺された。それも手負いの鹿に。しかも、巧の目の前で。

  • それは、巧か、あるいは他の誰かが助けに行こうとした結果、興奮した手負いの鹿が殺してしまった。

  • 巧は、妻を抱き上げて家に運んだ⇒冒頭の木々を見上げるシーン

どうでしょうか?
なんとなく筋が通っている気もしませんか?

いずれにせよ、これの答え合わせにもう一度この映画を見に行こう。また新しい解釈が生まれたら、ここで再度考察を記そうと思う、


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