突き放され欲
やっぱりノートにシャーペンで文章を書いていた時と明らかに違う。
もっと出だしがスムーズだった。今こうしてPCのメモ帳にタイピングをしているけど、
描き始めに5分ほどぼーっとしてしまった。
犯人は明確。「誰かに読まれるかも」と言う考えのやつだ。
こいつが一瞬でも頭をよぎった瞬間、癌細胞のようにどんどん仲間を増やし始め、
ついには思考そのものを支配していく。しかもとても気づきにくく、そっと侵食してくる。
原因がわかってるからすぐに対処できそうと思っても、このアイデアのこびりつきはなかなか取れない。
実際に癌を経験した自分だからこそ、この広がり方の類似性には注目せざるを得ない。
かてぇよ。何だ今の文は。「この広がり方の類似性には注目せざるを得ない。」じゃねぇよ。
「広がり方がめっちゃ似てるわ。」で良い。俺はそーやって喋るし、思考する。
取り繕うとするなよ。うまくやろうとするなよ。でも喋り言葉と書き言葉ってあるな。
そこまで自分を責めるな。落ち着け、けいすけ。
とは言ってもやっぱり音楽とか、絵とか、うまくやろうとするととんでもなくクソなものができる。
もはや芸術ではなく、「僕これくらいできるんです!」と言う能力アピールにしか見えない。聴こえない。
何というか、芸術がこっちを見ている気がして、「何見てんだよ。見んじゃねーよ。」と思ってしまう。
俺が心を奪われるときの流れを無理やり文字にして並べてみる。
無理やりだから心を奪われてる時はこんなこと考えていない。でも冷静に今そのフローを分析してみるとこんな感じ。
・芸術としてただただ自然にそこに在る。
・こっちから気づきから歩み寄る。
・勝手に思いを馳せて「あぁ素敵」。
・でもその芸術はこっちのことは意識してない。ふんっと自分らしくそこにただ在る。
・突き放されてる感じに何故か胸がキュンとしてしまう。もっと知りたいと思ってしまう。
・惚れる
こんな感じ。
今まで自分の心に深く刻まれた音楽や絵とかはそんなサバサバ系な感じがあったな。
しつこくなくて、さっぱりしてるんだよ。
ネトネトぎとぎとは嫌。軽く行こう。もうそういうのはよそう。
よそうって言ってるじゃないか。もう出てこないでくれ。
何で今日はこんなに遅いんだ。意識してるだろ。
出てきた文字を書けよ。スッと飛ぼうぜ。
昨日友達と話していて、本当にこんな世の中で生きているんだと思うことがあった。
それをそっこー書こうと思っていたんだけど、あらかじめ書こうと思っちゃったから、
うまく伝えようとしちゃって書けない。やっぱり身構えるとダメだ。
フリースタイルでなきゃ。とても濃い内容。着目すべき、改善すべき社会の闇。
あれ?え?おかしいでしょ?みたいなところ。
でも文字でかしこまっていざ書こうとなると進まない。
何だろう喋りたいなと本人が言っている。描く、書く、奏る、映すとか色々表現方法はあるけど、
これは喋りたい。声のトーンとか、いろいろな感情を込めながら、発声することで、伝えたい。
だからここには書かないでおく。閃いたからポンポン書けば良いということではない。
一番違和感のない、無理のない表現で表現するべきだと思う。
それが伝えるということ。
となると声で伝える表現媒体も必要だな。声。ラジオか。あー。ヤリタイと心が言っている。
“KSK思考”というインスタライブをやってた時期があった。
あれをやろうか。よしやろう。歌と絵と文字とラジオ。映像も以前、西恵利香さんのPVを作らせてもらったこととかあるな。
Osteoleucoの”Nocturne”や”All Led By Love”,”ヤリタイ/ヤリタクナイ”、Kan Sanoさんとやったスピッツチェリーのカバー
”いつかまたこの場所で”とかも、仲のいい友達と一緒に作った。サザンの素敵なバーディーサンプリングの動画も自分で作った。
なのに映像は今やってない。時間かかるからかな。結構大変だったのかな。
ちょっと今は無理やりにでも色々試したいから映像もまたやろう。
今作ってる曲で昨日ぱっと映像が思い浮かんだ曲がある。それの映像を作れと今上の方の誰かから囁かれている。
これは直感だ。これをやろう。直感は厳格でなく確かなサインだ。もうわかってるだろ?
歌、絵、文章、ラジオ、映像。よーーーーうし。昼飯くうか。
作った映像いくつか↓
いつかまたこの場所で (Lyric Video)
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