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たしなみを捨てるということ

町田康さんの「しらふで生きる」を読みました。読みながら幾つか考えたことがあるので書いてみます。

長年の習慣をやめる

町田さんは2015年末にお酒を飲むのをやめようと思い立ちます。それまで30年間休まずに飲み続けていたのに。そして、彼独特の表現ですが「歩道橋からその考えを突き落とした」。突き落としたら無かったことになりそうですが、そうはならず、逆にその考えに物申すことができなくなりました。つまりお酒をやめることをやめられなくなりました。

町田さんは困ったり戸惑ったりしながらも、それ以来、一滴もお酒を飲まずに来ているみたいです。偉いなと思うと同時に、ちょっと既視感あるなと思いました。自分がタバコをやめた時と経緯が似ています。

私も10年間くらい吸っていたタバコをある日「やめよう」と思ってやめました。誰に言われたわけではなく、町田さんのように狂気な自分が現れたわけでもなく、単に自分でそう思ってやめました。

まあ、私の場合はちょっと事情が違っていて、タバコを吸う面倒くささが吸うメリットを上回ってしまったからでした。当時国外に住んでいたのですが、自動販売機などは当然なく、コンビニとかもほぼ無かったので、タバコを買おうとするとスーパーマーケットで列に並ばないといけない。しかも値段は日本の2倍くらいでした。さらに、タバコは持っているけどライターを家に忘れた時とかもササっと100円ライターを買うというわけにいかない。

そして職場で常時吸っていたのがロシアから来た同僚のアルベールだけで、ビルに一つだけあった喫煙所でよく一緒になりました。が、他の会社の人とかもいるので、日本の喫煙所トークのようなことにはならず、ただ吸ってすぐに職場に戻る、という感じで吸う意味を失っていきました。そんな経緯で、1日に吸う本数もだいぶ減っていたのであっさりやめられたのかなと思いますが、やめてから一本も吸っていないです。

ただ、何も反動が無かったかといえばそうでもなくて、ご飯食べたり飲みに行ったりした時に吸えないのは結構ストレスでした。日本に帰ってからはそこそこの割合でまだ周りは吸っていましたし、飲食店の屋内での喫煙も当たり前のように行われていました。

そういうこともあったためか、「タバコを吸ってしまう」夢は繰り返し見ました。普段、吸いたいのに我慢しているという気持ちがだいぶ薄れてきた頃でも、夢の中で「あー、吸ってしまったか」と残念に思っているところで目が覚める、という経験を何度もしています。

それ以来、かなりの年月が経って今ではむしろ嫌煙家になっていますが、吸っていた頃はストレスリリーサーだと思っていたので、それを手放すことの大変さは今でも思い出すことができます。

町田さんは「付き合いが悪くなったと思われるんじゃないか」というのをやめた弊害としてあげていましたが、私も、普段話せない人とと気軽に話せた会社の喫煙所でのトークはなくなって残念に思っていたことの一つでした。あとは、Zippoのライターが好きだったのでそれと縁がなくなる(必要なくなる)というのは今でもちょっと寂しく思います。

なぜお酒を飲むのか

話がだいぶ脱線してしまいましたが、お酒の話に戻しましょう。町田さんは最初、酒をやめた理由を自分自身で理解できていませんでした。そして、飲みたい気持ちを常に持ちながら、断酒の状態を続けることも理解できていませんでした。ご本人は「狂っていたから」と表現していますが、明確な自分の意思で決めたわけじゃない、ということのようです。

ただ、正気と狂気の対話を続ける中で「楽しむ権利を不当に奪われているので、それを取り戻すために飲んでいたのだ」というところに行き着きます。つまり、本来であれば笑って過ごせるはずの人生が、現実には心配事が多くありそうはならない。あるいは、こちらが怒りを感じても仕方ない無礼な人がたびたび目の前に現れて楽しい生活を邪魔をする。そうやって不当に奪われた幸せを取り戻すために飲むのだ、そしてそれはは正当な権利であろう、という主張です。

その主張は、狂気(お酒をやめようとしている)のさんに「人は元々楽しむ権利なんか持っているのか?」と反論され、論破されてしまいます。そして正気の町田さんも「自分は普通の人間なのだ」「いや、普通以下のアホなのだ」と思うことで、「酒を飲んで楽しむ権利などない、だから飲まない」と自分を納得させていきます。

これを読んでだいぶ違和感を感じたのですが、確かにお酒を飲めば楽しい気持ちになります。が、私自身はリラックスという言葉の方が合っているように思います。つまり、よりくつろいだ気分で時間を過ごせる。普段、常に緊張して生きているわけではないですが(笑)、よりリラックスできるので飲むということが多いように思います。

そして「自分を下に見ることでお酒をやめられる」というのもちょっとどうかと思いましたが、これは町田さん流アンガーマネジメントなのかも知れません。今までは怒りを感じたりすることがあったら、お酒で憂さ晴らしをしていたのが、お酒の力を借りなくても対処できるようになった。それ自体は良いことだと思いますが、日頃の鬱憤を発散するだけのために30年間お酒を毎日飲み続けていたのだとするとそれはそれで寂しいかなと思いました。

飲むことによる体と心の変化

町田さんは飲まなくなったことで「些細なことでよろこびを感じる感覚を取り戻せた」と言っています。その他、体重が減ったり、眠りが深くなったり、出費が減ったりと、いろいろな利点を語っています。一方で、飲んだ時にどうなるのかに関してはあまり語っていません。「飲むと楽しくなって、楽しくなるとさらに飲みたくなる。それを無限に繰り返して、ある時点からは覚えていない」と。

これは、アルコールの作用によって感覚が麻痺し、心配事から解放されたり、溜まっている鬱憤を周りを気にせずに発散したりすることで「楽しい」という感覚を得るということなのかなと思いました。

私自身は「リラックスするために飲む」と書きましたが、もう少し掘り下げてみると「一つのことに集中する」環境を作ろうとしているのかなという気もしてきました。つまり、他の人と飲む時も一人で飲む時も、余計なことを忘れてその場に集中するための手段としてお酒(アルコールを)使っているように思います。日々刻々やってくるメールやテキストなどの通知や、時間があったらやりたいと思っているToDoリストのあれこれに煩わされることなく、今、目の前のことに集中できる。マインドフルネスの導入剤という言い方もできるかも知れません。

とは言え、要はアルコールで脳を麻痺させて強制的に一つのことしか考えられないようにしているので効率は良くないのだと思います。マルチコアのCPUを強制的にシングルコアで動かしているようなものでしょう。

例えば飲みながらコード書いていると、自分では「めっちゃ集中している」と思うかも知れませんが、それはそんな気がしているだけで、後から見るとそうでもない。町田さんも飲んでいる時に書いたものを載せていましたが、まあ見れたものではない(笑)。天下の大作家がそうなんだから、自分なんかが飲んで集中した気になって何かを捻り出せるわけでもないですね。

「たしなみ」は、たしなみ程度に

ということで、町田康さんの「しらふで生きる」を読んで考えたことをつらつらと書いてみました。町田さんが書いているように、飲んで得られる楽しさは酔いが覚めれば消滅してしまいます。資産にはならない。さらに、飲み過ぎるとそもそもその体験の記憶すら消滅してしまう。あるいは眠くなって寝てしまうということもあるかも知れません。

コロナ禍で家庭での飲酒が増えたという話も聞こえてきていますが、自分もその一人で、リモート勤務の退勤直後にプシュっと缶を開けることができる気軽さから、飲む量は増えていたと思います。これで良いのかなと思いつつ惰性で続けていたところでこの本に出会いました。自分は町田さんのように一切飲まないなんてことはしないと思います。飲み会には普通に参加するでしょうし、一人で飲むこともあるでしょう。ただ、惰性で飲むみたいなことはもったいないなと思うようになりました。

なお、ここで「お酒を控えましょう」とか「得しませんよ」なんていうつもりはありません。人それぞれの判断で飲みたい人は飲めば良いと思います。ただ、私自身は、この本が自分の限られた時間の使い方として「お酒を飲む」ということをもう少し真剣に考えるきっかけになったかなと思います。

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